呉座勇一氏について(7)

『戦争の日本中世史: 「下剋上」は本当にあったのか (新潮選書) 』(2014/1/24)「第一章 蒙古襲来と鎌倉武士」。呉座氏は「敗之」は「これを敗る」と和訳すべきところを「これに敗れる」と和訳した。しかし奇妙なのはこれだけではない。

 

※ なお文永の役における元・高麗軍の撤退理由については「自主的撤退」なのか呉座氏説の「敗北」なのか、あるいはそれ以外なのかということはこの際論じない。そういうこと以前の問題を指摘する。

 

(1)

  そもそも「自主的撤退」という表現を用いるのは妥当だろうか。日本軍の圧倒的公税をうけてモンゴル軍がほうほうの体で逃げ帰ったなどと考えている研究者はいないのだから、わざわざ「自主的」と言う必要なないと思う。要するに「モンゴル軍は負けていなかった」と強調したいのだろうが、そこまでモンゴルの肩を持つ意図はわかりにくい。

 まず言いたいのは、それを言うなら「元史」の「敗之」を「敗れる」と解釈した呉座氏が

 早期撤退は実質的にモンゴル軍の「敗北」であった。

 と「実質的に」と書いてるのは妥当だろうか?ということ。これこそ必要無いではないか。「正史」に「敗れる」と書いてあるんだから「実質的に」など必要ないではないか。こっちこそ考えようによっては「モンゴルの肩を持つ意図」があると思われよう。

 

それはともかく「自主的撤退」と書くことがそんなにおかしなことだろうか?「自主的撤退」論者(服部英雄氏)は、まさに単にモンゴル軍は負けていない、自主的に撤退したのだと考えているからこそ「自主的撤退」と書いたのだろう。ただそれだけのことではないのか?そりゃ「予測範囲内での自主的撤退」から「自主的」を省いても意味は通じるだろうけれども、これってそんなにツッコむところだろうか?と思わざるを得ない。これを「モンゴルの肩を持つ意図」などとするの穿ちすぎと言えるのではないか?

 

 (2)「戦後日本の平和主義」の小見出しが付いた文の中で

 実は戦前には、「神風」だけでなく「鎌倉武士の奮闘」も文永・弘安の役の勝因として広く喧伝されていた。だが戦後になると、こうした「大和魂」を称賛する姿勢が軍国主義につながった、という反省がなされるようになった。その結果、「鎌倉武士は勇敢だった」「日本軍は強かった」と主張することが憚られる風潮が生まれたのではないだろうか。鎌倉武士の実力をなるべく低く見積もりたいという気持ちが研究者たちの中で無意識に働いていると仮定すると、昨今の「自主的撤退」説の隆盛にも合点がいくのである。

 と書かれている。類似のことは『中学校歴史教科書における「元寇」記述についての比較研究』(包黎明 2010)にも書かれている(ただしこれは昭和21年の『くにのあゆみ』に関してのことだが)

二回とも暴風で元軍が敗退したという記述で,武士の活躍についての記述はない。武士の記述がないことは不自然さを否めないが,武士道を軍国主義と結びつける風潮のなか,何らかの政治的指示があったのか執筆者が過剰に自粛したのか,いずれかであろう。

 

 

ところで、呉座氏は

実は戦前には、「神風」だけでなく「鎌倉武士の奮闘」も文永・弘安の役の勝因として広く喧伝されていた。

と書くけれども、歴史教科書以外ではどうかと「国立国会図書館デジタルコレクション」にて「文永の役」を検索してみた。見たところでは元軍の撤退理由は十人十色という感じで、統一された見解は見いだせない。ただ確かに武士の奮闘については書いてあるのが多い。ただし多くは当日に決着がつかず、元軍が船に引上げたところを暴風雨が襲ったという文脈においてである。日本軍の奮闘で勝ったという話ではない。

 

※ なお興味深いのは『肥後の菊池氏』植田均(大正7)で

斯くて勝敗遂に決せず、夜に入つて両軍互いに退却し翌二十一日黎明湾上既に敵艦なく

 と、ここには「神風」が無い。元軍撤退理由は何も書いてなく、いなくなったと書くのみ。さらに興味深いのは『元寇史論 : 元寇六百五十年記念』佐藤善治郎(昭和6)で

元来蒙古には和戦両様の対敵法がある。此位武を示せば平和の手段で日本を屈服させる事が出来るとも思つたのであろう。故に徹底的に兵を動かす必要もないと考へられる。又蒙古の方でも我兵の勇敢な事に下を捲いたであらう。既に博多でも略取したならば、物資豊富の地であるから持久戦も出来るが、今日の戦で見た経験によれば、非常な犠牲を拂ふでなければそれが覚束ない。これは一旦退却しても平和の手段で屈服する素地を作つたとすれば戦争の効果がなかつたわけでもないと考へて退却に決したであらう。

 と撤退理由についてはある意味「自主的撤退説」と呼ぶべきものが主張されている。これらは例外的なものではないかと思われれる。

 

つまり文永の役で暴風雨があったとする認識の元で(暴風雨はなかったというのが今日の日本の学界では通説ではある。ただし2005年時点での中学校歴史教科書には暴風雨が採用されてるものが多数ある)、かつ「神風」などといいう神秘的な説を排除するならば、当時主流の歴史観では日本軍が当日互角の戦いをしたのだとしても、いずれ負けることになり、武士の奮闘といっても一時的なものにならざるを得ないのだから、戦前の主流の歴史観を引き継いだ上で神秘的なものを省いて暴風雨を自然現象とみなすならば、武士の奮闘が省略されるのも自然な話のように思われる(戦前だって少なくとも知識階級は「神風」を神秘的なものだと本気で信じてたわけではないだろうが)。

 

※ もちろん暴風雨が無かったとした場合(実際そうだろう)の元軍撤退理由はまた別のことを考えなければならないが、それはそれ。

 

※ ただし包黎明氏の論文によれば中学校歴史教科書において「神風(暴風)」が加えられたのは戦時中の昭和18(1943)年。それ以前の教科書’(明治43年以降)においては、元軍は逃げ去ったと書かれている模様。特に明治の教科書では

わが将士勇敢にこれを防ぎ、元軍は目的に達せずに遁れ帰る

とまで書いている。しかしながら「国立国会図書館デジタルコレクション」を見れば、多くは暴風雨に触れており、当時の歴史認識に基づいたものというより、それこそ「教育への配慮が」あったのではないかと思われる。

呉座勇一氏について(6)

呉座氏が漢文を読めないという情報がツイッター上にあった。

 

具体的には『戦争の日本中世史: 「下剋上」は本当にあったのか (新潮選書) 』(2014/1/24)「第一章 蒙古襲来と鎌倉武士」において『元史』の記述を

 「(至元十一年)冬十月、其国に入り、これに敗れる。官軍(モンゴル軍・高麗軍)整わず、また矢尽く」

 と和訳しているところ。だとすれば、文永の役(1274)においてモンゴル軍が敗れたことが「正史」に明記してあることになる。しかしながら原文は

冬十月 入其国 敗之 而官軍不整 又矢尽 惟虏掠四境而帰

であり「敗之」は「これに敗れる」ではなく「これを敗る」が正しい。全く逆の意味に解釈しているのだ。

 

しかし不思議なのは、呉座氏は先行研究を参照しているはずであり、この文の解釈がどうなされているかも知っていると考えるのが自然だ(それをしていないのだとしたらそれはそれで歴史学者としてどうなの?という話だ)。

 

そして自身の解釈がそれらと違うことを知れば、自身の解釈に誤りがあることに気付くか、もしくは従来の解釈が間違っており自身の解釈が正しいのだという結論に至るはずだ。その場合、『従来この文は「これを破る」と解釈されてきたが「これに敗れる」と解釈すべきである』といった説明を加えるのが自然だろう。ところが、そんな説明は一切ないのだ。

 

これは全く不可解だ。なぜなら呉座氏の主張するところは、「自主的撤退」説に対して

早期撤退は実質的にモンゴル軍の「敗北」であった。

という呉座氏の主張の重要な根拠となっているからだ。であればなおさら、従来の解釈の「誤まり」について強く主張すべきところなのだ。にも関わらず、この肝心のことを読者に提示しない。

 

さらに、謎なのは「これに敗れる」と『元史』に書いてあるのなら『実質的にモンゴル軍の「敗北」であった』と「実質的に」などと書く必要もなく「敗北であった」と書けばよいだろう。

 

つまり根本的には「敗之」を「これを敗る」ではなく「これに敗れる」と解釈することが間違ってる。しかし「これに敗れる」が正しいと考えている呉座氏の立場をとったとしても、やはり呉座氏の主張の仕方は理解に苦しむのだ。

 

あまりにも理解に苦しむので、俺は当初これは単純ミスではないかと思った。呉座氏も「これを敗る」と書くつもりだったのだが、うっかり「これを敗れる」と書いてしまったのだと。あるいは誤植とか。その可能性は捨てきれない。ただ呉座氏は他にも理解に苦しむことをしばしば書いているので判断に迷うところ。

 

国家鮟鱇 on Twitter: "「冬十月、入其国、敗之、而官軍不整、又矢尽、惟虜掠四境而帰」が「冬十月、其国に入り、これに敗れる」(『戦争の日本中世史』)。どうしてこうなった?誤植の可能性もあるが…"

 

(追記 2020/04/14 8:15)

2009年の2ちゃんねるの日本史板で「敗之」を「之に敗れる」と解釈してる人がいるとの情報。もしかしたらもしかするかも