范可(斎藤義龍)について(その3)
「范可」についての解釈は俺に言わせれば無茶苦茶である。全く論理的・科学的ではない。
(その1)『信長公記』の記述から義龍(新九郎)が「唐」の故事にちなんで「范可」と号したということは読み取れない。百歩譲ってその解釈が可能だとしても、別の解釈も可能である。
(その2)百歩譲って、ちなんだという解釈をするとした場合、『信長公記』によれば「范可」は法号(法名)であるから、法号に唐の人名を使用していることになる。俺はそんな例を知らないが、この問題をちゃんと考えているのか?なお「范」は中国人の姓の一つであるから、「范」が姓で「可」が名の可能性があるが、法号に姓名を用いるということは、さらに有り得なさそうなことだ。
(その3)『信長公記』には「はんか」と仮名で書いてある。百歩譲って、ちなんだと解釈しても、義龍の「范可」は一次史料で確認できるが、唐の「はんか」は確認できない。にもかかわらず「范可」と記している解説はどういう根拠によるものか?
(その4)『信長公記』によれば唐の「はんか」の故事は「父の頸を切って孝となった故事」である。よって、これにちなんで義龍が「范可」を号したのなら、義龍は父殺しは道三への孝行だと考えていた、またはそう宣伝しようとしていたことになる。そんなことがあり得るだろうか?また史実では「范可」を号したのは道三の生前であるから、息子の義龍は「これから親孝行のために親を殺す」と主張してたことになる。しかし当然のことながら親の道三が抵抗してるのだから、孝行であるはずがないのは誰の目にも明らかなことだ。
つまり、義龍の「范可」が唐の故事にちなんだものだと考えている研究者は(1)問題点に気付いていない。または(2)『信長公記』の記述の一部分だけを採用し、都合の悪い部分は太田牛一の錯誤・創作ということにして、都合の良いように「本当はこうだったのだ」と修正しているかのどちらかであると考えられる。
そして極め付きは、「父の頸を切って孝となった故事」という部分を無視して、単なる「親殺し」をした人物にちなんだことにしてしまった。しかも『父殺しと言えば「范可」が代名詞になっていた』などという、ほとんど何の根拠の無い小説家もどきのことまで主張されているのだ。
※ これを主張している横山住雄氏は元市役所職員で在野出身ということになるかもしれないけれど、東京大学大学院人文社会系研究科助教の木下聡氏もこの説に沿った考えを持っておられる模様。
最初に書いた通り、無茶苦茶であろう。こんなの(元の史料の断片だけを採用して、それ以外を大幅に「修正」する)がアリだったら、なんでもありではないか。修正する根拠となるものが他の史料にあるというのなら良いが(義龍が「范可」と署名した史料はそれに該当する)、それ以外は史料に無いただの辻褄合わせにすぎにすぎない。
こんなんで作家がどうのとか偉そうに言えるだろうか?
(追記3/31 9:00)そういえば懐かしのこれと似てるよね。
「おれたちはとんでもない思い違いをしていたようだ。これを見てみろ。」
范可(斎藤義龍)について(その2)
合戦に打ち勝ちて、頸実検の所へ、道三が頸持ち来たる。此の時、身より出だせる罪なりと、得道をこそしたりけり。是れより後、新九郎はんかと名乗る。古事(こじ)あり。昔、唐に、はんかと云ふ者、親の頸を切る。夫者(かのもの)、父の頸を切りて孝となるなり。今の新九郎義龍は、不孝、重罪恥辱となるなり。
『信長公記 (上) 』(教育社新書―原本現代訳) の訳は
これから後義竜は、新九郎范可と名乗った。これには故事があって、昔唐(もろこし)に范可という者があって親の首を切った。しかしそれは親の首を切ることが孝となるからであったが、今の新九郎義竜にとっては、不孝の罪重く、恥辱ともなるものであった。
も唐の「はんか」を「范可」と表記しており、義龍の「范可」と同じにしている。同じだという根拠はどこにあるのかといえば、結局は義龍の「范可」は唐の故事にちなんだと解釈しているということになるだろう。
次に『岐阜市史』(昭和3)。
義龍は、道三と戦端を交ふるに當つて、自ら范可と號した。これ、唐代范可の故事を採つて得意としたものである。
とある。道三の生前に范可と名乗っていた史実に沿っているが、「唐代范可の故事を採つて」は『信長公記』によるもの。ただし既に書いたように「唐」が「唐代」の意味かは疑問だし、故事を採ったとする解釈も疑問。
次に 『岐阜市史 通史編 原始・古代・中世』
『信長公記』はこの范可の名の由来を、中国の父の頸を切って孝となった故事に求めているが、義龍は道三と戦うまえから范可と称しているのであるから、これは作者太田牛一の創作であろう。
とする。上の説明とは違うが、ここでも『信長公記』は故事にちなんだと書いてると解釈してる点では同じ。
次に『 中世武士選書 斎藤道三と義龍』(横山住雄)
范可というのは昔の中国の人で、父を殺したことから、父殺しと言えば「范可」が代名詞になっていた。道三が義龍の父でなければ、父殺しでもないから范可とも改名しなかっただろう。改名した時はまだ父を殺していないが(実行は四ヶ月後)、父を殺して政権を奪うという闘志に燃えていたことになる。
とある。「はんか」の故事が書いてあるのは『信長公記』だけだと思うのだが、『父殺しと言えば「范可」が代名詞になっていた』とかなり飛躍したことが書いてある。特に注目すべきは、「父の頸を切って孝となった故事」が、ただの父殺しの話になっている。全く理解に苦しむ。ちなみにこの本の初版は2015年。「はじめに」によれば平成6(1994)年に書いたものを踏襲したものだそうだが、比較的最近の研究がこんなだとは驚きである。
しかし、根本的な問題は『信長公記』は義龍は唐の故事によって范可と名乗ったと書いているのか?ということだ。
俺はそうではないと思う。これは「是れより後、新九郎はんかと名乗る」で区切るべきものであろう。そのあとの「古事あり」は故事によって「はんか」と名乗ったという意味ではなくて、『義龍は「はんか」と名乗ったけれど、「はんか」といえばこういう故事がある』と解釈すべきものだと俺はかなりの自信を持って考える。
※ 似た事例としては信長の「岐阜」命名がある。一般に周の故事によって岐阜と命名したという説が流布しているけれども、『政秀寺古記』を素直に読めば、まず「岐阜」・「岐陽)」・「岐山」の3つの候補から信長が「岐阜」を選び、そのあとに沢彦に「岐阜」にちなんだめでたい話を問うたところ周の故事を話したのであって、周の故事から「岐阜」と命名したという話ではないのだ。