2015-07-15から1日間の記事一覧

菩提心院日覚書状について(その6)

既に書いたように村岡幹生教授は楞厳坊は京都にいて、上京した織田信秀周辺から発せられた三河情勢を聞いたと考えている。これが意味するところは、く信秀は積極的に情報発信していたということだろう。だからこそ楞厳坊が知ることができたのだ。 当然のこと…

菩提心院日覚書状について(その5)

前回『村岡教授の考える「三州平均」は俺の考える「三州平均」とは異なる』と書いたけれど、良く読めばそうではない。村岡教授も「三州平均」とは三河全土の平定と考えているようだ。 しかし、書状が書かれた9月22日の10日ばかり前に来た楞厳坊が「只今の時…