根本的な違い

福井日銀総裁村上ファンドに出資していた問題についてはネット上でも活発な議論が行なわれている。論点は多種多様だが、個別的具体的な問題は置いておいて、ここに二つの大きな考え方がある。


一つは日銀総裁という地位に相応しい人物か否かという視点で判断しようとする考え方。
もう一つは、日銀総裁であろうが、一般庶民であろうが関係なく公平に判断しようとする考え方。


両者とも、福井擁護派・批判派が存在するが、後者の方に擁護派が多いと思われる。一般人に照らし合わせれば、疑惑程度で責任を負わすべきではなく、そうであれば福井総裁を責めることはできないという考えになるからだ。


典型的なのが、「趣味のWebデザイン」の徳保隆夫氏だ。
「村上・福井問題、もうひとつの見方」http://deztec.jp/design/06/06/14_society.html
はまさにこのような考え方によっている。
「便利な武器は使ったもの勝ち」
http://deztec.jp/design/06/06/20_logic.html
では、

大企業だの官僚だの政治家だのといった相手にはやたら厳しい連中が典型的で、私は大嫌い。

と書いている。


徳保氏のこの思考方法は一貫していて、薮本雅子氏のブログが炎上した際も、
『「他人」に厳しい人々』http://deztec.jp/design/06/05/22_society.html
「私には越えられないハードル」http://deztec.jp/design/06/05/24_society.html
で、そういった主張をしている。


一方、俺などはそういう考え方をしない。日銀総裁には日銀総裁の、元アナウンサーには元アナウンサーの、それぞれの属性に伴う責任があるというのが俺の考え方だ。ただし、ここで注意すべきは、地位の高い人や、有名人にだけ責任があるという意味ではなく、もちろん俺には俺の責任というものがあり、要するに、人間は均等ではないということだ。日銀総裁にはそれに相応しい報酬や、金銭を伴わなくても名声が与えられるのであり、それに相応しい高いモラルが要求され、またそれを自覚していなければならないと考えるのだ。


これはつまり、「右」と「左」の対立だ。現実の左翼である野党は、福井総裁の辞任を要求しているが、これは、それとは別の大きな政治的要素があるからだ。平等主義的考え方によれば福井総裁を擁護するか、一般人にも同様のモラルを要求しなければならない。逆に保守は福井総裁を批判する立場にあるが、自分達が任命したという別の要素がある。現実の政治ではこのように逆転現象が起きるのは珍しくない。しかし論壇においては、そのような政治的要素を考慮する必要を感じない場合、このような「右」と「左」の違いが出てくることもある。


もちろん「右」「左」といっても、極端なのは稀であって、そういう傾向があるということなのだが、それでも両者の隔たりは大きい。
しかもややこしいことに、今回のケースのように福井総裁は内規違反であったか等、具体的なことを論じているときには、もっと根本的な考え方の相違があることに気付かず、意見の相違が具体的な事象に対する評価の違いであると考えてしまうことが多々ある。しかし、いくら細かいことを議論しても交わることのない場合が多いのではなかろうか。


これは今まで多くの議論で見られた大きな考え方の対立であるのだが、その対立に気付かない場合、自分の物差しで相手を見て、「物分りの悪い人間」、要するに「馬鹿」扱いしてしまうことがよくある。しかも「自分の価値観を絶対視してはいけない」と常々言っている人間までが、そのような態度を取っていることさえあるのでややこしい。