「個人的思考」と「文化」の対立

衆愚化は子猫の夢を見るか?(ココヴォコ図書館)


(参照)⇒作家の坂東眞砂子が18日の日経新聞で日常的に子猫を殺していると語る(痛いニュース(ノ∀`) )


非常に興味をそそられる話だ。しかしテーマが大きすぎるので、とりあえず、「猫殺し」の件についての俺の感想。


筆者は坂東氏の行動に批判的だ。なぜなら生の問題は「答えの出ない難問」であるのに、猫殺しを後付けで正当化しているからだ。しかし、それを批判する言論にも批判的だ。

それにも関わらず、坂東の行為を反論している人間は、同じく坂東をひっくり返したような奇妙な「理屈」を述べている。


つまり坂東氏と批判者を同列に見ているわけだ。確かに、そういう理屈であれば、その通りだ。しかし、何か大切なことが抜けていないだろうか?


俺が子猫殺しの話を知ったとき、すぐに思いついたのは、欧米による日本の捕鯨批判だ。海洋資源である鯨を保護すべきだという意見なら、それは納得できる。しかし批判はそれだけではない。鯨は知能の高い生物であるから、それを食べるのは残酷だという意見がある。このことについて、ここで説明はしないが、後者のような意見に対する反論は、捕鯨文化を持つ日本人には理解しやすい。


人間が生き物を殺すことは、生きていくために避けられないことであるというのが、一部の人を除いた大多数の認識だ。その中で、何を殺してはいけなくて、何なら殺しても許されるのか?あるいはどういう理由なら殺してもよくて、どういう理由で殺してはいけないのかという問題は、科学的に説明できるものではない。であるのだから、日本の捕鯨文化を「野蛮」だと批判する行為には反感を覚えるのである。同じく「犬食」も多くの現代日本人にとっては受け付けられない食文化であるが「野蛮」なことと批判するべきものではないと考える。


では、子猫を殺すのもそれと同じなのかといえば、そこには大きな違いがある。それは「文化」ではないということだ。坂東氏の猫殺しに批判的な人は多いが、その人達が、もし仮に、アフリカがどこかの部族に「猫殺しの風習」があったとしたら、それを批判するかといえば、中には(捕鯨反対論者と同様に)そんな人もいるだろうが、それは「文化」なのだからと思う人が大勢いるだろう。(それを「優越感」で説明するのは誤っていると思う)


「文化」とは、「社会を構成する人々によって習得・共有・伝達される行動様式ないし生活様式の総体。」(大辞林)である。それは「理屈」ではない。その風習はかくかくしかじかの理由があって出来たのだろうと推測することはできるが、それで完璧に説明できるものではない。


坂東氏の考えに反発を覚える人達の思考は個人から出たものではあるが、現代の日本文化を大きく反映している。その声が感情的で理論的でなければないほど、それは文化の根源的なものから発せられた声である。一方、坂東氏の考えは、坂東氏の脳内から発したものであって、いくら理路整然としていようとも、個人的なものだ。(もちろん100%そうであるというわけではなく、こちらもまた文化のある側面が反映しているということはできるだろう。度合いの問題だ)


坂東氏とその批判者の対立を「個人対個人」のものと捉えれば、両者とも同じだということはできるだろうが、「個人対文化」の対立であると捉えれば、また別の見方ができるであろう。