猫殺し批判は「ファッショ」か?

(上の続き。)


猫殺し批判が「ファッショ」に繋がるだろうか?俺は必ずしもそうは思わない。それは「文化」から発せられたものだと思うから。ファシズムは「文化」からではなく「思考」から生じるものだと思う。坂東氏の思考が大多数を説得することは、まずありえないが、もっと頭脳明晰な人物が登場して、多数の人間を論理で説得したときにファシズムは誕生する。(もちろん猫殺し批判が「文化」を離れて一人歩きすれば、同じくファシズムに繋がる可能性はある)


したがって、

逆説的な言い方になるけれど、子猫を殺すのにあれだけ悩んで、その悩みを解消するために自分の社会的身分に対する分別も無く、あんないかれた記事を新聞に 載せてしまった作家は、多分全体主義に走ることは無い。その思考がいかに奇態に見えたとしても、それが今の僕らにとっては馴染みの無い異様なロジックに見 えたとしても、少なくとものたくった上で、自己正当化をし続け、それでも耐え切れずに口にして免罪符を求めずずにはいられないような、そういうややこしい 人は多分ファッショ化しない。

とあるが、むしろ、この延長線上にこそファシズムがあると俺には思えてしまう。


このあたり「保守」と「革新」の見解の相違は大きい。
「革新」「左翼」はファシズムを「右翼」と規定する。一方、「保守」はファシズムを左翼思想だとみなす。


ドラッカー先生も以下のように述べる。

過去二〇〇年の西洋の歴史において、あらゆる全体主義が、それぞれの時代のリベラリズム自由主義進歩主義]から発している。ジャンジャック・ルソー[一七一二〜七八。フランスの思想家、社会革命家。『社会契約論』(一七六二)]からヒトラーまでは、真っ直ぐに系譜を追うことができる。その線上には、ロベスピエール[一七五八〜九四.フランスの政治家、フランス革命時にギロチンによる恐怖政治を行う]、マルクススターリンがいる。

『イノベーターの条件』(ダイヤモンド社


もちろん、それ以前にも「虐殺」は存在したのは間違いない。しかし、理性主義の時代には、それがさらに徹底したものになったと言えるのではなかろうか。