江戸は四神相応の地? (その2)

江戸が四神相応だと主張するものは数あれど、それをいつ誰が言い出したのかということを検証したものはほとんどない(というか全く無いといっていいだろう)。江戸時代から言われているのか、明治以降のことなのか、それとも最近の話なのか?


『柳営秘鑑』や『落穂集』という史料が存在するので、江戸時代に既に認識されていたのは確かだ。だが、そこには何をもって四神相応としたのかについては書いていない(訂正:書いてある。ただし現在言われているのとは違う)。現在良く言われているところの北(玄武)は富士または麹町台地、東(青龍)は平川または隅田川、南(朱雀)は江戸湊、西(白虎)は東海道などというのは誰が言い出したのか?


これはビリーバーだけが問題だというわけではない。否定論者の中にも富士は江戸の北にあるとは到底言えないから四神相応のわけがないなどと反論する人がいるが、それで否定できるのは富士が北にないということのみであって、それをもって江戸が四神相応ではないなどと言えるものではない。しかも、富士が玄武でないということですら、地理的な事実ではないとしても、当時の人にそういう認識があった可能性が無かったと断定できるものではない。むしろ明らかに北とはいえない富士がなぜ玄武なのかを考えてみる必要があるかもしれない。それが現代のトンデモ研究家の思いつきだというのなら否定することにやぶさかではないが、江戸時代の史料にそう書いてあるとかいうのであれば、それには何らかの理由があるのかもしれない。それがわからないことには何とも言えない。


こういうことは少し考えればわかりそうなものだが、トンデモを否定することに夢中で頭に血が上ってしまうと、非論理的な批判に陥ってしまうのだろう。そのことについて、かつて皆神龍太郎氏が『日本の「超常現象ある・ない論争」はなぜ退屈か』という論文を書いている。だが、その皆神氏が『新・トンデモ超常現象56の真相』の中では上に書いたような、かなり大雑把な四神相応説批判をしている。ここで批判の対象になっているのは、加門七海氏の『大江戸魔方陣』という書物で、これがトンデモであることは疑いようがないが、それを批判するために江戸が四神相応の地でないとまで言うのは言いすぎだ。少なくとも否定する根拠が薄すぎる。


(つづく)