淀君は貶められたのか

俺がネット始めて、歴史掲示板とかよく見ていた頃、今から6〜7年前。「淀君」というのは蔑称であり「淀殿」と呼ぶべき。江戸時代に淀殿は貶めるために遊女にたとえられたって趣旨のことが盛んに書かれていたんですね(まあ、今でも「淀君 遊女」「淀殿 遊女」で検索するといっぱいヒットするけれど)


でも、本当に「淀君」は貶められたんだろうかって、当時から疑問に思っていたし、そういうことを某掲示板にも書いたことがある。


で、さっきウィキペディア見たらこんな記述が。
淀殿(ウィキペディア)

ただし、「徳川幕府家譜」で徳川家康の継室朝日姫が「朝日君」、秀忠の継室崇源院が「於江与君」とされているなど、「君」がすぐさま蔑称だと断定するには一定の留保が必要である[10]。

まったくその通りだと思いますよ。大体「君」というのは尊称でしょう。それが遊女に使われたっていうけれど、何で遊女に使われたかっていうと、遊女の価値を高めるためじゃないんですかね?違いますか(あるいは遊女が「聖なる存在」だったときの名残)。それだったらやっぱり尊称であって、蔑称じゃないでしょう。「東照神君」って何って話ですよ。


一体誰がこんなこと言い出したんでしょうね。俺の知るところでは『戦国三姉妹物語』 (小和田哲男 角川選書 1997)にそんなことが書いてあったと思いますが、それが最初なのかは知らない(ちなみに俺は小和田氏が言うことは控えめに言っても眉唾物が多いと思っているんですけどね)。


ウィキペディアには

田中貴子は著書『あやかし考』で「この『〜君』という呼び方には暗に遊女や娼婦を意味する侮蔑的ニュアンスが強く、江戸時代に彼女をことさらにおとしめ卑しめる意図で用いられるようになった」と述べている。

ってあるけれど、この本が出版されたのは2004年で、この時は既にこの話が話題になっていましたからね。


注目すべきは、

現在最も一般的に用いられる淀殿、過去に用いられた淀君の名は、同時代の史料には一切見られず、いずれも江戸時代以降の呼び名である[7]。
淀君」という呼称が広く普及して一般に定着するのは、明治時代に坪内逍遥の戯曲『桐一葉』が上演された以降のことである。「淀君」の呼称については、悪女、淫婦というイメージとともに売春婦の呼称と結びつけて定着したとされる[8]。そのため、戦後になるとこれが次第に「淀殿」にとって替わられるようになった[9]。

これを見ると、「淀君」が蔑称になったのは明治時代以降ってことになるんじゃないんですかね?ちなみに前にヤフー掲示板で仕入れた情報によると、坪内逍遥の「桐一葉」「沓手鳥孤城落月」、塚原渋柿園の小説「淀殿」、さらに三上於菟吉の「淀君」が彼女のイメージを作り出したのだそうだ。そして江戸時代の浄瑠璃「日本賢女鑑」では彼女は賢女とされていたのだそうだ。もちろん江戸時代にも大野治長と密通したなんて話があったけれども、それは貶めるためというより、同時代にそんな「噂」があったのは宣教師も書いているように流布していたことなので、そう書いたまでのことなんじゃないですかね。


はっきりいって俺はこの話は相当トホホな話だと思うんですよね。でも敗者の名誉回復をしたいという心理は淀君の件に限らず蔓延しているから、こういう話はそういう思いを持っている人には心地よく、受け入れられやすい話なんだと思いますね。