『将門記』託宣のド素人の素朴な疑問

平将門をめぐって - heuristic ways


この記事を読んで『将門記』の託宣について考えていてふと疑問に思ったこと。


なぜ八幡神が託宣を降したのか?


といっても、なぜ八幡神皇位平将門に授けると告げたのか?ということではない。


そうではなくて、なぜ八幡神は巫女に憑依したのか?ということ。


まだ説明不足だろうから丁寧に書くと、八幡神が憑依したのは上野国総社の巫女だといわれている。

総社、惣社(そうじゃ、そうしゃ、すべやしろ)とは、特定地域内の神社の祭神を集めて祀った(合祀)神社のことである

総社 - Wikipedia


八幡神が憑依するのに相応しいのは八幡神社の巫女ではなかろうか?といっても、当時上野国八幡神社が存在したのかわからない。上野国一社八幡宮は957年創建で、将門が新皇を称したのは939年だからまだ存在しない。総社の中に八幡神社が含まれているのもわからない。


そんなことどうでもいいじゃないかって話かもしれない。仮に八幡神社があったとしても、そこの巫女が将門のいる場所に居合わせなければ託宣が下せないからしょうがないだろということかもしれない(でも居合わせる必要はないようにも思う。上総でだろうが常陸でだろうが神の勝手ではなかろうか?道鏡のときには天皇が宇佐まで使者を派遣したんだし)。


それ以前に本当に巫女は上野国総社の巫女なのか?『将門記』にはそんなこと書いてない。でもそう書いてある記事がネット上に何件かある。しかし、そもそも神社の巫女じゃないのかもしれない。『将門記』には「昌伎」とある。「かんなぎ」のことだが「遊女」の可能性もある。単に通りすがりの女性だったかもしれない。


北野天満宮の由緒は多治比文子(たじひのあやこ)という女性の託宣によるものだった(942年)。多治比文子とは何者か?菅原道真の乳母説と童女説があるらしい。童女だった場合は道真に縁もゆかりもない人物だったのだろう。


そう考えると何の不思議もない話なのかもしれない。けれど、俺にはもう一つ素朴な疑問があるのだ。それは「託宣を下したのは本当に八幡神だったのか?」という疑問。

八幡大菩薩使。奉授朕位於蔭子平將門。其位記、左大臣正二位菅原朝臣靈魂表者、右八幡大菩薩、起八万軍、奉授朕位。今、須以卅二相音樂、早可奉迎之。」

将門記 群書類従本


正直漢文・古文ダメなので、わからないところもあるけれど、「朕」とは八幡大菩薩のことだとされている。ところがその八幡大菩薩が「右八幡大菩薩、起八万軍、奉授朕位」と言っているのは不自然じゃなかろうか?

 このあたりから段々と主語がはっきりしなくなってきます。
 それまでは八幡大菩薩と朕とは同じだったと思うのですが、この文からは『八幡大菩薩』と『朕』は同じとは思えないような書き方です。

 もっとも巫女は神がかり状態なのですから、深く考えてもしかたがありません。それと八万の兵という意味もわかりません。

将門2
という記事がある。


「『八幡大菩薩』と『朕』は同じとは思えない」というのが、本当に同じでないのだとしたら…


気になるのが正一位護国霊験惣社大明神」。明神とは「明らかな姿をもって現れているという意味」であり、上野国総社そのもののことであろう。
(某ライトノベルで言うところの情報統合思念体による対有機生命体コンタクト用ヒューマノイドインターフェースみたいなものか)


正一位護国霊験惣社大明神」の中に八幡神が含まれているとしたら、「朕」は八幡であるともいえるし、八幡でないともいえる存在…


なんてことを考えてみたのだが、なんかトンデモを通り越して電波っぽくなってしまった。


(追記:よく考えりゃ正一位の神が「朕」と称するのもおかしいか)