ケインズは何をいわんとしているのか?

グランドキャニオンには柵がない - 国家鮟鱇
の追記にも書いたんだけれど。

 こうした発想の実現は非現実的な希望なのでしょうか? 政治社会の発達を律する動機面での根拠があまりに不十分でしょうか? その発想が打倒しようとする利権は、この発想が奉仕するものに比べて強力だしもっと明確でしょうか?

 ここではその答を出しますまい。この理論を徐々にくるむべき現実的手法の概略を述べるのでさえ、本書とはちがう性質の本が必要となるでしょう。でももし本書の発想が正しければ――著者自身は本を書くときに、必然的にそういう想定に基づかざるを得ません――ある程度の期間にわたりそれが持つ威力を否定はできないだろう、と私は予言します。現在では、人々はもっと根本的な診断を異様に期待しています。もっと多くの人は喜んでそれを受け入れようとし、それが少しでも可能性があるようなら、喜んで試してみようとさえしています。でもこういう現代の雰囲気はさて置くにしても、経済学者や政治哲学者たちの発想というのは、それが正しい場合にもまちがっている場合にも、一般に思われているよりずっと強力なものです。というか、それ以外に世界を支配するものはほとんどありません。知的影響から自由なつもりの実務屋は、たいがいどこかのトンデモ経済学者の奴隷です。虚空からお告げを聞き取るような、権力の座にいるキチガイたちは、数年前の駄文書き殴り学者からその狂信的な発想を得ているのです。こうした発想がだんだん浸透するのに比べれば、既存利害の力はかなり誇張されていると思います。もちろんすぐには影響しませんが、しばらく時間をおいて効いてきます。というのも経済と政治哲学の分野においては、二十五歳から三十歳を過ぎてから新しい発想に影響される人はあまりいません。ですから公僕や政治家や扇動家ですら、現在のできごとに適用したがる発想というのは、たぶん最新のものではないのです。でも遅かれ早かれ、善悪双方にとって危険なのは、発想なのであり、既存利害ではないのです。

ケインズ『一般理論』第24章


重要なポイントは
「知的影響から自由なつもりの実務屋は、たいがいどこかのトンデモ経済学者の奴隷です。虚空からお告げを聞き取るような、権力の座にいるキチガイたちは、数年前の駄文書き殴り学者からその狂信的な発想を得ているのです。」


山形浩生氏の「過激」な訳ではちと不安なので検索すると

自分たちは理論などにとらわれていないと思っている実務家は、遠い昔の名前すら忘れられてしまった三流学者の説に従っているだけのことが多い。

NED-WLT : 実務家が理論をバカにするとき


ここでケインズ「実務家とは実に愚かな連中だ」と言っているのである…




というのはおそらく間違いで、文脈に沿って理解するならば、「実務家といえども理論にとらわれているのだ」ということでしょう。そして「その理論は実務家が若いときに仕込んだ理論だ」ということであり「年を取った実務家は新しい発想に影響されない」ということでしょう。


であるから「今の実務家に新しい発想を説いても聞き入れられる可能性はほとんどないけれど、若い人に説けば彼らが年を取って権力を握る頃には、その新しい発想が影響力を持つことになるだろう」ってことなんじゃないですかね?



さて、ここでケインズが「トンデモ経済学者」とか「数年前の駄文書き殴り学者」とか、あるいは「遠い昔の名前すら忘れられてしまった三流学者の説」と言っているものは何かということが問題だ。文字通りの意味で解釈しちゃっていいのだろうか?


原文を確認する必要があるけれど俺には無理。


しかし、そこはかとなく思うのは、それは当時における評価のことを言っているのではないか?ということ。すなわち「当時は高い評価を受けていなかった経済学者」のことではなかろうか?


「数年前の駄文書き殴り学者」「遠い昔の名前すら忘れられてしまった三流学者の説」の「数年前」と「遠い昔」は原文は同じはずなのに全く印象が異なる。しかし文脈から推測すれば「現在の実務家が若い頃」のことであって「数十年前の経済学者」のことだろうと思われる。そして「忘れられてしまった」とは現在では忘れられてしまったということではなくて、「当時無名だった」ということであり、「駄文書き殴り学者」「三流学者」とは当時の評価のことではなかろうか?


そしてケインズ自身もその「三流学者」の一人なのであり、現在の実務家に受け入れられることはないけれど、それでも主張を繰り返していれば、時間はかかるがやがて誰が言っていたかは忘れられても、理論は実務家の間に浸透していくだろうと言っているように俺には思えてならないんだけれど…


(追記)英文では「defunct economist」になっている。「故人」とか「すたれた」という意味だから、当時の評価じゃなくて現在の評価か。再検討してみる。でも「すたれた」ということは「当時にあってはすたれていない」ってことでは?邦訳とのニュアンスが違うように思う。


(追記)何か頭がこんがらがってくるんだけれど、英文にscribblerとあって三文文士の意味。「三流学者」に対応するようにみえるけど、これは「Madmen in authority〜」に続く文にあるのであって、「自分たちは理論などにとらわれていないと思っている実務家は、遠い昔の名前すら忘れられてしまった三流学者の説に従っているだけのことが多い」という訳は二つを一つにしている感じがする。このネットで何件か見かける訳は「超訳」っぽい。というかジョセフ・S・ナイ・ジュニアの言葉になってるのもあるし。
大外一気!:また一週間が始まる。
でもそれだけじゃ解決しなくて山形氏訳でも「トンデモ経済学者」になっているのはどうしてかがわからない。