足利義昭御内書(その4)

Wallerstein氏の追記によれば『後鑑』とのこと。近代デジタルライブラリーで確認。

著者は幕府に仕えた儒学者成島良譲・号筑山、等(『徳川実紀』編纂者成島司直の養子)である。全347巻・付録20巻。天保8年(1837年)から16年かけて執筆され嘉永6年(1853年)に完成した。

後鑑 - Wikipedia


しかしながら、天正元年(元亀四年)という年数と「伝御書於神祖及水野下野守信元、被命援兵事。」という綱文については検討する必要があると思われ。


【寄稿14】将軍足利義昭の御内書 »»Web会員«« : 水野氏史研究会
の出典は『新訂 徳川家康文書の研究 上巻』(中村孝也 日本学術振興会)所収『別本士林證文』「榊原家所蔵文書」によるもの。

※ 年数は天正二年に比定されているけれど、誰が比定したのかは不明(おそらく中村孝也氏であろうが要確認)。


甲州令一味」が「甲州令和談」の誤記というのはちょっと考えにくいのではあるまいか。『後鑑』に同断とあるけれど、「同断」とは

〔補説〕 「おなじことわり」の漢字表記「同断」を音読みした語
同じに断ぜられること。同じ理屈であること。また、そのさま。同然。同様。

どうだん【同断】 の意味とは - Yahoo!辞書
という意味であり、むしろ文意は同じだが一字一句同じではないという証明になっているのではないだろうか?


もし「城都」が正しいとすると「城郭」と同義ということになり、「城都」とあるからには京都から立ち退いたということであり、天正元年説は成り立たないと思われ、やはり天正二年になるのではあるまいか?


なお、『後鑑』には同じ3月20日付で不識庵上杉謙信)宛ての書状も掲載されている。徳川・水野宛と同時に出されたものと考えて良いと思われる。他に浦上宗景、智光院頼慶?・宇喜多直家宛てにも出されたという。


謙信宛書状の内容は甲越ならびに本願寺門跡が和を遂げて天下を再興することを頼み入るというものである。


であるならば、「和談」「一味」というのも、俺が推測した通り、やはり武田と上杉の和睦を意味しているのではなかろうか?


なお、これが天正元年(元亀四年)のこととするならば、この時期は武田信玄の西上作戦の真っ最中であり、信玄は4月12日に死去する。


この西上作戦のために、信玄・本願寺は以下のようなことを実行した。

元亀3年(1572年)8月には、上杉謙信を牽制するため、本願寺顕如に要請して越中一向一揆を起こさせた(越中一向一揆)。このときの越中一向一揆は大規模なもので、勝興寺顕栄・瑞泉寺顕秀ら本願寺坊官のほかに椎名康胤ら越中の大名も参加して謙信に敵対した。このため、謙信は一揆の鎮圧にかかりきりとなり、武田領に侵攻するような余裕は無くなった(さらに西上作戦を行った時期は雪が国境を塞いでしまう)。

西上作戦 - Wikipedia


そのため、信玄・謙信の関係は緊迫しており、織田信長が信玄の西上作戦の準備を謙信攻略のためだと誤解していたことは前に書いた。


そういう点から見ても天正元年に武田・上杉が和睦するという状況にはなかったように思う。


※ なお智光院頼慶で検索すると、

十月十八日、足利十五代将軍となった義昭は、翌永禄十二年二月八日、智光院
頼慶を謙信に遣わし、信長と協議のうえ、武田信玄と和睦し、天下を平静にして
ほしいとの御内書を下した。頼慶は越後一の宮居多神社(新潟県上越市)神官
花ヶ前盛貞の子で、謙信の使者として京都で朝廷や幕府との折衝にあたっていた。

対 上杉戦
という記事がヒットする。義昭・信長にとって甲越の和睦は前々からの政治課題であり、義昭・信長が仲違いした後にも従前からの課題が引き継がれていたということだろう。


もちろん、和睦が成立した暁には今では敵となった信長を協力して打倒するということになるんだろうけれど。