アマテラスとタカミムスヒ(19) ヤマトタケルの太陽神的性格(その6)

ヤマトタケルの話をするはずなのに、というかそもそも「アマテラスとタカミムスヒ」の話をするはずなのに、なかなか話が進まないのには理由がある。それは現在の記紀神話研究が多数の重要な問題点を見落としているからだ。記紀神話研究の一部しか見ていないド素人がそんなこと言い切れるのかといえば、言い切れるものではないけれど、もしそれらの問題点を認識しているのならば片鱗くらいは見えてもいいはずではないか。しかし、そうは到底見えないのでほぼそうであろうと思っている。したがって一つのことを論じるにも、この部分は誰々が言及しているという形で省略することができず、かなり掘り下げて論じなければならないのである。


さて、前回の要旨は、大和とその周辺地域は「葦原中国」の中心ではなく、東の果てだという神話設定があるという話であった。誤解を招くかもしれないので書いておくけれど、これは、大和より東の地域を大和朝廷がまだ支配していないという意味ではなく「大和周辺より東の土地は存在しない」という意味である(ゲームでいえば右スクロールができないということだ)。もちろん現実の日本列島は東に中部・関東・東北があるのであり、これはあくまで「神話」であって現実ではないということだ。


そうであれば、ヤマトタケルがイズモタケルを征伐した後に伊勢に現れるとういのは、「西に沈んだ太陽が東から昇る」という話であるとすることが可能になるのだ。


ところが、ヤマトタケル伝説はさらに続き、「存在しないはず」の伊勢よりさらに東方へと向かうのだ。


よって俺の仮説は破綻することになる…


となるのなら最初から書かない。


実はヤマトタケル伝説を記す『日本書紀景行天皇紀において神話世界に重大な変化が発生するのである。


それは以下のことだ。

景行天皇二七年(丁酉九七)二月壬(十二)子》二十七年春二月辛丑朔壬子。武内宿禰自東国還之奏言。東夷之中。有日高見国。其国人。男女並椎結文身。為人勇悍、是総曰蝦夷。亦土地沃壊而曠之。撃可取也。

日本書紀(国史大系本)


現代語訳。

 二十七年春二月十二日、竹内宿禰は東国から帰って申し上げるのに、「東国のいなかの中に、日高見国(北上川流域か)があります。その国の人は男も女も、髪を椎のような形に結い、体に入墨をしていて勇敢です。これらすべて蝦夷といいます。また土地は肥えていて広大です。攻略するとよいでしょう」といった。
『全現代語訳日本書紀』(宇治谷孟 講談社

「東国」に「日高見国」があり彼らを蝦夷という。ここに大和地域より東に土地が「出現」したのである(なお「北上川流域か」というのは無視してほしい)。


ところで、この話は神武天皇紀の

抑又、聞於塩土老翁。曰、東有美地。青山四周。其中、亦有乗天磐船而飛降者。余謂。彼地必当足以恢弘大業、光宅天下。蓋六合之中心乎。厥飛降者。謂是饒速日歟。何不就而都之乎。諸皇子対曰。理実灼然。我亦恒以為念。宜早行之。是年也、太歳甲寅。

日本書紀(国史大系本)


現代語訳

さてまた塩土の翁に聞くと『東の方に良い土地があり、青い山が取り巻いている。その中へ天の磐舟に乗って、とび降ってきた者がある』と。思うにその土地は、大業をひろめ天下を治めるによいであろう。きっとこの国の中心地だろう。そのとび降ってきた者は、饒速日というものであろう。そこに行って都をつくるにかぎる」と。諸皇子たちも「その通りです。私たちもそう思うところです。速やかに実行しましょう」と申された。この年は太歳の甲寅である。
(引用同上)

という神武東征の話に類似している。


神武東征では「日向」を起点として「蝦夷の住む大和」に進軍した。景行天皇紀では、その「大和」から「蝦夷の住む日高見国」への攻略の話が出てくるのである。


これは「日向→大和」が「大和→日高見国」へと神話世界がシフトしたことを意味すると考えられる。けれども大和より西が空白になったわけではなく、それはそのまま残されることになるわけで、たとえていえば、一枚の地図をコピーして二枚にしてつなげたようになったようなものだと思うのである。そして現実の日本列島と神話世界が大まかには一致することとなったのだと思うのだ。


これによって「日出る処」の伊勢より東にはなかったはずの土地が生まれ、ヤマトタケルはさらに東に行くことが可能になったということだろう。


なお、ヤマトタケル東征のエピソードであるが、これは元々は神武東征のコピーだと考えられるので、ヤマトタケルの業績となってはいるけれど、必ずしもヤマトタケルの属性と関係あるとは限らないようにも考えられる。しかしこの点はまだまだ考察途中。


(つづく)


※ なお神武天皇紀に大和のことを「蓋六合之中心乎」とあるのは俺の考えにとって都合が悪いのだが棚上げ…。天岩戸神話のところでも触れたけれど「六合」という表記も気になる。あと宇治谷氏が「光宅天下」を「天下を治め」と訳しているけれど、太陽神との関係でさらに深い意味があるような、ないような、これも気になるところではある。