「長篠の戦い」の歴史的意義

長篠の戦いは日本史の教科書にも載っている著名な歴史的事件である。


だが、長篠の戦いといえば「三段撃ち」「鉄砲三千丁」「武田騎馬軍団」が真っ先に話題になる。肝心の「長篠の戦いとは何だったのか」ということについてはそれと比較すればあまり話題にならない。もちろん比較すればの話であって、それについての解説はネット上にもかなりあるけれど。


あるにはあるんだけれど、俺は日本史好きではあるが、正直軍事には疎い。地理にも疎い。というわけで説明を見てもあんまり理解できていない。さらに言えば長篠の戦いについてそれほど調べたわけではない。ないないづくしである。それは桶狭間や小牧・長久手、賤ヶ岳、関が原や大坂の陣についても同じなのだが、しかしこれらの戦いの歴史的意義は、そんなド素人でもそれなりにわかる。だが長篠の戦いの歴史的な意義は何だったのかというとよくわからない。


これは俺だけではないはずだ。たとえばこんな記事を見た。

57: ランサルセ(芋):2013/07/23(火) 18:53:16.72 id:s6Mq1PEfP
三段撃ちも用いずに騎馬戦で有名な武田(の武将たち)を破るなんて
そっちのが凄い訳で

でも次は、騎馬戦、武田は実は弱かったって話が出てくるのかな?

史実だと思ってたのが実は創作だった時って悲しいよな 三段撃ちも一夜城もなかったんだろ・・・:哲学ニュースnwk


「騎馬戦」はともかく、織田・徳川連合軍が、あの強い武田軍団によく勝てたものだという感想を持つ人は多いようだ。しかし通説では、織田・徳川連合軍は3万8千人、武田軍は1万5千人であるから、2倍以上の戦力差があるのであって、織田・徳川が勝つのは戦う前からわかりきったことなのである。桶狭間の戦いは例外中の例外だ。


したがって、長篠の戦いは不利な戦い、あるいは戦ってみなければ勝敗がわからない戦いに織田・徳川が勝利して、その後の歴史に影響を与えたというようなものではない。勝つべくして勝った戦いである。


長篠の戦いとは何だったかといえば、表面的には、武田軍に包囲された長篠城を救出するための戦いだったということになる。しかし、その程度のことで歴史教科書には載らないだろう。


もう少し広げれば、武田勝頼三河尾張侵攻作戦を撃破した戦いということになる。これはそれなりに歴史的意義が高いといえるだろう。


さらに広げれば、長篠の戦いにおいて武田の重臣が多く討死して武田氏が弱体化したことに意義があるということができるかもしれない。これはかなり言われていることだと思われる。ただ、ここで疑問に思うのは、武田氏が滅んだのは天正10年のことであり、長篠の戦いから7年も後のことだ。


弱体化したのなら、徹底的に攻撃して一気に攻め滅ぼせばよいように思うが、そこまでは弱体化していなかったということだろう。重臣が多数討死したことが痛手だったとしても7年という月日は若年者が立派な武将に成長するには十分な時間だ。一時的な痛手もやがて回復してしまう。


もちろん一時的な痛手を与えて、その間に織田が他方面に力を注ぐことによって力を増し、武田が回復しても以前とは状況が大きく変わっているという点で意義があったという考えはできるのではないかと思われる。ただし、この点について言及したものはあっても大雑把なものであり、深い考察を俺は見たことがない。


既に書いたように俺は長篠の戦いについてあまり調べてないので、これから少し調べてみるつもり。