天下へ上洛(その3)

上杉謙信の願文をもう一度引用する

晴信を退治し、氏康と輝虎で無事に和睦し、留守中の分国を心配せずに、天下へ上洛せしめ、筋目を守り、諸士と談合し、三好・松永の首を刎ね、京都公方様と鎌倉公方の両公方様を取立て申す

https://twitter.com/twinkle_tiger/status/175325376090865665


「取立て申す」とは「登用する」という意味であり、すなわち「足利義昭征夷大将軍にする」という意味である。


とすれば、この願文では「鎌倉(古河)公方」も取立てると書いてあるが、それも「何者かを古河公方にする」という意味だということになる。


「京都公方様」は足利義輝が永禄8年(1565) に暗殺されて空席になっている(足利義栄の将軍就任は永禄11年)。しかし古河公方は天文11年(1552)以降、足利義氏がその職にあり空席ではない。しかるに上杉謙信はなぜ「鎌倉公方を取立て申す」と願文に書いたのか?


実のところ俺は東国の歴史に疎いのだが(それじゃだめなんだが)、ウィキペディアの「足利義氏 (古河公方)」の記事に次のようにある。

また、のちに関東管領となった上杉謙信も晴氏の長男である足利藤氏が正統な古河公方であるとし、異母弟であった義氏の継承を認めなかった。関東における北条氏と、上杉氏はじめとする反北条氏との攻防の中にあって、義氏は小田原など古河と関係ない地を転々とすることになった。なお、『小田原衆所領役帳』では「御家門方 葛西様」と記載されている。

足利義氏 (古河公方) - Wikipedia


謙信は足利義氏古河公方と認めていなかったのである。


ということは「鎌倉公方を取立てる」とは
「足利藤氏を古河公方にする」
という意味であることでほぼ間違いないであろう。


さて、ここで思うのは関東管領上杉謙信にとって、足利義昭を将軍にすることと、足利藤氏を古河公方にすることと、どっちが重要なことだったか?ということだ。


俺は足利藤氏を古河公方にすることこそが上杉謙信にとって切実な願いだっただろうと思う。だとすれば、足利義昭を将軍にすることの目的は何だったのかも見えてくるのではないだろうか?


それは「義昭に恩を売って将軍の権威で足利藤氏の古河公方就任を後押しさせること」ではなかろうか?


そういう見方をすると、また違ったものが見えてくるのではないだろうか?


さて、その足利藤氏であるが、

その後、藤氏の身柄は相模・伊豆といった北条領内を転々としたとされるが、永禄9年(1566年)以降はその消息が不明になる。北条氏康によって処刑されたと言われている。

足利藤氏 - Wikipedia
とある。まさにこの願文が書かれた永禄9年に足利藤氏の身に重大なことがあったことが推測される。謙信は北条と和睦して上洛作戦をするつもりであったが、北条側は謙信の「真の目的」を察知したのかもしれない。


上杉謙信の「真の目的」の主役である足利藤氏の身に容易ならぬことが起きたのなら、謙信にとっての義昭上洛の重要性も変化することになるだろう。

古河公方・足利藤氏を失った事により、上杉謙信の関東経営は大打撃を受け、後に越相同盟が締結された時にも、唯一の古河公方となった足利義氏を謙信は認めざるを得なくなる。一方で、藤氏の弟の家国、藤政、輝氏が古河公方の再興を目指し活動した形跡も確認されているが、その影響力は微々たるものであり、天正年間を境にその活動はみられなくなる。

藤氏を失ってもまだ望みはあったとはいえ、それが達せられる見込みは低下していたと思われる。


これ以降も義昭と謙信の間には上洛についてのやり取りがあるけれども、義昭の側も謙信の本気度を疑いはじめたかもしれない。


ここで浮上してきたのが織田信長ということになるかもしれない。信長はこの永禄9年8月に矢島に出陣する計画を立てていた(実現しなかったが)。


そのような見方で詳しく検討してみる必要があるのではないだろうか(既にあるのかもしれないけれど)。