『信長公記』を読む(織田信長暗殺未遂事件)その2

『信長公記』を読む(織田信長暗殺未遂事件)その1 - 国家鮟鱇のつづき。


最初からやる。原文は『信長公記』(桑田忠親校註 新人物往来社)を参考にした。

信長公記

信長公記

一、さる程に、上総介殿御上洛の儀、俄に仰せ出だされ、御伴衆八十人の御書立にて御上京なされ、城都、奈良、堺御見物にて、公方光源院義照へ御礼仰せられ、御在京候ひき。

上総介殿(信長)は上洛すると突然言い出し、お供80人で上京して、京都・奈良・堺見物をし、将軍足利義輝に拝謁して京都に滞在した。

爰を晴れなりと拵へ、大のし付に車を懸けて、御供衆、皆のし付にて候なり。

わからん。とにかく「ハレ」なので信長御一行は派手な格好をしてたんだろう。

清洲の名古野弥五郎が内に丹羽兵蔵とて、こざかしき者あり。

そのまんま。史実通りなら信長の居城も清州。

都へ罷り上り候ところ、

上洛の理由は書いてないが後に「田舎より御使に罷り上り候」とある。

都へ罷り上り候ところ、人体と覚しき衆、首々五、六人、上下卅人計り上洛候。

「人体(じんてい)=人品のよいこと」。身分の良い武士が5〜6人、上下合わせて30人ばかりが京都に向かっていた。

志那の渡りにて、彼の衆乗り候舟に、同船仕り候。

「志那の渡り」は滋賀県草津市。永禄11年に足利義昭を擁して上洛したときもここを渡った。
Japan Geographic
兵蔵と美濃衆はどこで出会ったのだろうか?今の道路だと東海道名神新名神全て草津市を通る。おそらくは草津近辺で出会ったのだろう。

何くの者ぞと尋ねられ、 三川の国の者にて候。尾張の国を罷り通り候とて、有随なる様体にて候間、機遣仕り候て、罷り越し候と申し候へば、

どこの者かと尋ねられ、三河の国の者だと答えた。「有随」とは『信長公記』(角川ソフィア文庫)の解説によれば「蹲踞。うずくまっていること。ひっそりしていること」。よって「尾張の国を通るとき、ひっそりと気遣いして通り過ぎましたと話したら」という意味だろう(前の記事に書いたのは間違い)。

上総、かいそうも程あるまじく候と申し候。

信長公記』(角川ソフィア文庫)の解説によれば「かいそう」は「甲斐性」。南條範夫織田信長』では「信長めの異相」。俺は「上総(信長)が威相」。いずれにせよ「信長も長くはない」と相手が答えたということ。


(つづく)