『信長公記』を読む(織田信長暗殺未遂事件)その4

『信長公記』を読む(織田信長暗殺未遂事件)その3 のつづき。

急ぎ候間、程なく夜に入り京着候て、二条たこ薬師の辺に宿を取り、

急いだので、程なく夜に入り京都についた。二条の蛸薬師のあたりに宿をとった。


そのまんまだが問題がある。この直前に

夜るは伴の衆に紛れ、近々と引き付け、様子を聞くに、公方の御覚悟さへ参り候て、其の宿の者に仰せ付けられ候はゞ、鉄炮にて打ち候はんには何の子細あるまじきと申し候。

と書いてある。「夜るは伴の衆に紛れ」と書いてあるのに、次に「程なく夜に入り京着候て」とあるのはどうしたことか?「夜る」が「夜」のことならその時点で夜に入っているではないか。


一応、「夜る」→昼→「夜に入り」という可能性は考えられる。兵蔵が一向に疑念を抱いたのは志那の渡り(草津市)で一行と同じ舟に乗って話を聞いた後のことだ。


先に永禄11年に信長が足利義昭を擁して上洛したときにもこの志那の渡りを通ったと書いた。『信長公記』に

廿四日、信長守山まで御働き。翌日志那・勢田の舟さし相ひ、御逗留。
廿五日、御渡海なされ、三井寺極楽院に御陣を縣けられ、諸勢大津の馬場・松本に陣取り。
廿七日、公方様御渡海にて、同三井寺光浄院に御陣宿。
廿八日、信長東福寺に御陣を移され、(略)
公方様同日に清水へ御動座。

とある。これによれば公方様(義昭)は27日に琵琶湖を渡って三井寺大津市)に宿泊。翌日の28日には京都の清水寺にいる。


これを参照すれば、平蔵と美濃衆も三井寺周辺で宿泊。翌日には京に入ったと考えられる。それを踏まえれば

彼等が泊り々々あたりに宿を借り、こざかしきわらんべをちか付け、京にして湯入りの衆にて候か、誰にて候ぞと尋ね候へば、三川の国の者にて候と申すに付いて、心をゆるし、わらんべ申す様に、湯入りにてもなくて、美濃国より大事の御使いを請取り、上総介殿の討手に上り候と申し候。人数は、小池吉内、平美作、近松田面、宮川八右衛門、野木次左衛門、是れ等なり。夜るは伴の衆に紛れ、近々と引き付け、様子を聞くに、公方の御覚悟さへ参り候て、其の宿の者に仰せ付けられ候はゞ、鉄炮にて打ち候はんには何の子細あるまじきと申し候。急ぎ候間、程なく夜に入り京着候て、二条たこ薬師の辺に宿を取り、

はどう解釈すべきなのだろうか?まず、琵琶湖を渡って宿に泊まった(日没前)。童を近づけて情報収集。そこまではいいとして、次の「夜るは伴の衆に紛れ」は宿でのことか?路上のことか?「伴の衆に紛れ」とあるので、一行の宿まで訪ねていって紛れるというのは難しいだろうと思い、路上でのことではないかと前の記事では書いたのだが、考えてみれば街灯のない時代に夜中に旅するというのも不自然だし、宿を出たのなら「其の宿の者」という言い方も不自然だ。やはりこれは宿でのことか?ただやはり宿で伴の衆に紛れて暗殺計画を聞くということが可能なのかということは引っかかる。三河者だから通報されないと思ってペラペラしゃべっったのだろうか?


(つづく)