菩提心院日覚書状について

Papathana's ブログさんが去年話題になった「菩提心院日覚書状」について論じている。

川戦:安城合戦編⑯補遺Ⅰ 昨年発表された中京大教授の新説
川戦:安城合戦編⑰補遺Ⅱ 菩提心院日覚書状を読んでみる。
川戦:安城合戦編⑱補遺Ⅲ 記事の感想


俺もこの件には大いに関心があって、図書館で『愛知県史』の該当部分をコピーしてきたはずなんだけれどどっかいっちゃって見当たらない。本来なら史料を見ながら書くべきなんだけれど、とりあえず俺が思っているのは「村岡教授の誤読ではないか?」ということ。


俺はど素人で古文書を解読するのが苦手で、この史料にも意味不明なところが山ほどあるんだけれども、

岡崎ハ弾江かう参之分にて、からゝゝの命にて候、弾ハ三州平均

というのは、おそらくは報告者が実際に見たものではない。そうではなくて、「今頃は、岡崎(松平広忠)は弾正忠(織田信秀)に降参して命からがらの状態で、信秀は三河を平定しているに違いない」
という意味ではないかと思わえる。


というのも、まず時系列で
1 楞厳坊が10日ほど前に京都から越中加賀の日覚のもとにやってきた
2 楞厳坊が言うには、三河の鵜殿氏が「尾張(織田)と駿河(今川)の間で戦があり、意外にも今川が負けてしまった」という。
3 そして弾正忠(信秀)は「一段ノ曲なく被思たるよしに候」(不明、この勝利で一区切りをつけないと考えたという意味か?)だという。
3 そのため只今の時分には(三河に)攻め入っているだろうと楞厳坊が言った。
ということになると思われる。


すなわちこの話は、尾張が勝って三河が負けたというところまでが実話として聞いた話であり、それは10日以上前のことである。そして信秀が攻め入るのは「只今の時分」であって、既に楞厳坊は三河にいないのだから、実際に攻め入ったという情報を得ることは不可能である。つまり確度が高いかもしれないけれど、あくまで推測にすぎないのだ。


そしてそのあとに

岡崎ハ弾江かう参之分にて、からゝゝの命にて候、弾ハ三州平均

と出てくるのだから、これは日覚が楞厳坊の話を聞いて、10日以上前の情報から推測すれば「今頃は岡崎(広忠)は弾正忠(信秀)に降参しているはずだ」と考えたという話であると俺には思える。


そして「其翌日ニ京上候」について村岡教授は「弾ハ三州平均、其翌日ニ京上候」と読んで、信秀が上京したと解釈しているけれども、そうではなくて、

其翌日ニ京上候、其便宜候て楞厳物語も聞まいらせ候

と読むべきであり、上京したのは楞厳坊であろう。そして「翌日」とは鵜殿氏に話を聞いた翌日という意味であろう。そして「其便宜候て楞厳物語も聞まいらせ候」とは楞厳坊が上京して、京都において何か役目を与えられて越中加賀の日覚の元まで下向したのでこの話を聞くことができたということではなかろうか?


いや、もちろん正しいという自信は無いんだけれども、俺個人としてはそう読むべきだとしか思えないのであり、すなわちこの文書は松平広忠織田信秀に降参したという根拠には全くならないと思うのである。


(訂正 7/20)
日覚は加賀ではなく越中にいたそうだ。加賀にいようが越中にいようがこの問題に影響はないけれど訂正しておく。