菩提心院日覚書状について(その2)

日覚、越後本成寺に諸国の状況を伝える
今まで気付かなかったんだけれど、「歴探」さんが去年の8月に書いていた。


さて、今日いろいろ考えているうちに、この文書は1547年(天文十六年)の文書ではない可能性が非常に高いと思われる。


その理由は、文書の冒頭の

信心志も人の意持もいつくもゝゝかハらぬ物にてこそ候へ、京都ハ山門と和談とやらんの様に成候而、心安勤行をも諸法花共ニせられ候よし候、当宗の事、入らく次第の事にて候、過分に代物を仕候而、これほとにも成たる■■候、本禅にも負物過分ニ候、楞厳ハたち返りにて候、かゝの寺にハ、弟子の厳隆坊を置候、来春ハ早々下候而、小勧進仕度のよし申捨而たち候、加州ハ大乱にて候、一向宗のやつはらも、時節到来とみたる事共多候、此分ならハ久敷事にてハ不可有之候、目出度これにて留まいらせ候、

「歴探」さんの現代語訳では

信心・志も人の『意持』も一句も一句も変わらないものでしょうけれど、京都は比叡山と和談のようだとのことで、心安く勤行を諸法華たちがされたとのこと。当宗のことは、入洛次第のことです。過剰に品物を用意して、これほどになるものかと。『本禅』にも借金が過分にできました。楞厳坊はすぐ戻ったので、あの寺には弟子の厳隆坊を置きました。来春は早々に下って、小勧進をしたいとのことを申し捨てて発ちました。加賀国は大乱です。一向宗の奴らが時節到来と見ていることが多いです。この分だと、久しいことにはならないでしょう。めでたくこれで留め参らせます。


ここでもっとも注目すべきなのは「当宗の事、入らく次第の事にて候(当宗のことは、入洛次第のことです)」の部分。


俺は天文法華の乱について詳しくないので今まで気付かなかったんだけれども、ウィキペディアで日覚の属する「法華宗陣門流」の記事を見て、そこから楞厳坊が上京したときの目的地は「本禅寺」であろうと、その記事を見た。そこに

1536年(天文5年)の法華一揆(天文法華の乱)の際は他の法華宗寺院とともに焼失し、堺に避難した。その後1542年(天文11年)に後奈良天皇法華宗帰洛の綸旨を下し、堺に避難した寺々も京都に戻ったが、本禅寺はこれを2年ほどさかのぼる1540年(天文9年)、西陣桜井町に伽藍を再建した(現・上京区智恵光院通今出川上る桜井町)[1]。

本禅寺 - Wikipedia
とある。それで気付いたんだけれど「法華一揆」の記事にも

こうして隆盛を誇った洛中の日蓮教団は壊滅し、宗徒は洛外に追放された。以後6年間、京都においては日蓮宗は禁教となった。1542年(天文11年)に京都帰還を許す勅許が再び下り、後に日蓮宗寺院十五本山が再建された。

法華一揆 - Wikipedia
とある。


すなわち1542年(天文11年)に後奈良天皇法華宗帰洛の綸旨を下したのであった。よって、この文書は天文11年のものである可能性が非常に高いと思われる。


さて、この天文11年とは、いわゆる「第一次小豆坂の戦いがあったとされる年である。

織田信秀の西三河平野部への進出に対し、松平氏を後援しつつ東三河から西三河へと勢力を伸ばしつつあった今川義元は、西三河から織田氏の勢力を駆逐すべく、天文11年(1542年)8月(一説に12月)、大兵を率いて生田原に軍を進めた。一方の織田信秀もこれに対して安祥城を発し、矢作川を渡って対岸の上和田に布陣。同月10日(9月19日)、両軍は岡崎城東南の小豆坂において激突した。

この戦いは、織田方の小豆坂七本槍をはじめとした将士の奮戦によって織田軍の勝利に終わったとされる。しかしながら、この第一次合戦については虚構であるという説もある。

小豆坂の戦い - Wikipedia


ところで、日覚の文書は「九月廿二日」の日付が入っている。楞厳坊が日覚のもとに来たのは10日ばかり前である。日覚が越中加賀にいるとすれば、京都から越中加賀に下ったことになり何日かを要する。さらに京都での滞在があり、それにくわえて東三河から京都まで数日を要する。したがって楞厳坊が東三河を出発したのは最低でも10日程度、実際はそれ以上前ではないかと思われる。


「覚悟外ニ東国はいくんニ成候間」が「第一次小豆坂の戦い」のことだとすると、その日は8月10日であり、この情報と、近いうちに織田信秀軍が三河全体を支配するために出兵するという予想を楞厳坊は三河で耳にして、おそらくそれが原因であろうが、三河を去り京都に向かったということで、時期的にも整合性があるのではないかと思われる。


もしこの文書が天文11年のものであれば、この文書の重要性は「虚構」という説もある「第一次小豆坂の戦い」と呼ばれる戦いに該当する戦闘が実際にあったことの裏付けとしての価値ではないだろうか?


※ ただし、第一次と第二次は史料の上で混同されている可能性があり、この戦闘を「第一次小豆坂の戦い」と呼ぶのがふさわしいのかという問題はあるだろうけれど。




(追記)綸旨が出たのは11月14日とある
黒矢龍作の歴史年表: 110天文年間 アーカイブ
しかし、翌年以降の9月に綸旨のことを書いたとするのも不自然のように思われ、綸旨が出る前から事実上許可されていたということではなかろうか?「京都ハ山門と和談」とあるのが何を指すのか考える必要がある。