菩提心院日覚書状について(その4)

一 三州ハ駿河衆敗軍の様ニ候て、弾正忠先以一国を管領候、威勢前代未聞之様ニ其沙汰共候、

この文書がもし天文16年のものだとしても、これは日覚が楞厳坊の情報を元に推測したものにすぎず、これをもっって信秀が三河一国を支配したとか、松平広忠が降参したとかいったことが史実としてあったとする根拠にすることは全くできないというのが俺の考え。


一方、村岡幹生はどう考えているかというと、村岡教授は「伝聞情報」だという。伝聞情報ではあるが虚報ではないと考えているのである。なぜならこの情報は「京に上った織田信秀周辺から発せられたもの」だからと考えているらしい。


ここが俺と村岡教授の大いに異なるところであり、その根本は、俺が「楞厳坊は東三河で鵜殿氏から情報を得た」と解釈しているのに対して、教授は「楞厳坊は東三河にいたのではなくて京都で情報を入手した」と解釈しているところにあるだろう。


原文はこうなっている

一、此十日計已前ニ京都より楞厳坊罷下候、厳隆坊も同心にて候、心城坊ハ旧冬よりいまに当国ニ滞留候、さる仕合候て、濃州より当国へ上使ニ養雲軒と申人之内者の様にて候、于今旦方あひたの使なと仕候、此人なふてハの様にて候、一、彼楞厳坊申来候ハ、鵜殿仕合ハよくも有間敷様ニ物語候、其謂ハ尾と駿と間を見あはせ候て、種々上手をせられ候之処ニ、覚悟外ニ東国はいくんニ成候間、弾正忠一段ノ曲なく被思たるよしに候、定而彼地をも只今の時分ハ攻いらんやと致物語候間、あまりニ■■許存候間、近日心■坊を可差遣覚悟にて候、岡崎ハ弾江かう参之分にて、からゝゝの命にて候、弾ハ三州平均、其翌日ニ京上候、其便宜候て楞厳物語も聞まいらせ候、万一の辺も候てハ、門中力落外見実義口惜次第候、

日覚、越後本成寺に諸国の状況を伝える(歴探)


第一に問題になるのは

彼楞厳坊申来候ハ、鵜殿仕合ハよくも有間敷様ニ物語候

「物語」である。俺は「鵜殿が物語った」と解釈しているのに対し、教授は「楞厳坊が物語った」と解釈している。ここは巴々さんも二つの解釈を提示しているところである。

(訳案1)楞厳坊が来て申すには、鵜殿によると情勢は(今川にとって)よくないとのことです。
(訳案2)楞厳坊が来て申すには、鵜殿での合戦は(今川にとって)よくないとのことです。

川戦:安城合戦編⑰補遺Ⅱ 菩提心院日覚書状を読んでみる。


俺はこのブログの下書きをしているときに、「俺が思うに○○だと思う」というように書いて、あとで修正することが良くあるのだが、楞厳坊が「申来」て○○だと「物語」したというのは「申来」と「物語」でダブっているように感じられるのである。だからここは『楞厳坊が、鵜殿が(楞厳坊に対して)「仕合ハよくも有間敷」と物語したと、(日覚に)申し来た』と解釈すべきであり、巴々さんの(訳案1)を採用すべきだと思うのである。

(訳案1)楞厳坊が来て申すには、鵜殿によると情勢は(今川にとって)よくないとのことです。

もちろん俺はド素人であり、同一人物が「申来」って「物語」するという用法が特に珍しいものでもなく、普通に使われているものだという可能性はあるけれど。


なお、その次の「其謂ハ尾と駿と〜定而彼地をも只今の時分ハ攻いらんやと致物語候間」の「物語」は(鵜殿に聞いた情報を元にして)楞厳坊がしたものであろう。「只今の時分」とは10日ばかり前に日覚の元に来た楞厳坊が物語った時点のことを指すと考えるべきだろう。ここもまた解釈にとって重要な点である。なぜなら、そのあとに例の「弾ハ三州平均」があるからだ。


「只今の時分」が楞厳坊が日覚に三河情勢を物語している時点のことであるならば、織田弾正忠信秀はまだ三河を平均していないことになるのではないか。そして「只今の時分」が約10日前のことだとすれば、日覚が手紙を書いている時点では「弾ハ三州平均」しているに違いないと日覚が考えるのも自然なことであろう。


俺はそう解釈する以外にないと思うのだが、村岡教授の考えではどうなっているのだろうか?教授は「只今の時分」を「今こんにちの時点」と訳しており、前後の文脈から考えて、俺と同じく「只今の時分」を越中加賀で日覚に物語している時点と解釈しているようだけれども、そうであるならばなぜ楞厳坊は織田信秀三河を平均して翌日に上京したという情報を京都で入手できるのであろうか?


それはどう考えたって不可能である。とするなら村岡教授の考える「三州平均」は俺の考える「三州平均」とは異なることになる。すなわち鵜殿の攻略が終わってない状態でも「三州平均」と呼ぶことに不都合は無いと考えているということであろう。


もしかしたら「(鵜殿は)尾と駿と間を見あはせ候て、種々上手をせられ候」と解釈して、鵜殿は信秀と敵対しているわけではなく、信秀が鵜殿を攻めるのは「三州平均」とは別の軍事行動と考えているのかもしれない。


※ なお俺は「尾と駿と間を見あはせ候て、種々上手をせられ候」の主語を「鵜殿」と解釈してよいものか疑問がある。「尾と駿」が「種々上手をせられ」と解釈すべきではなかろうか?


※ ところで「せられ」は敬語であり、主語が鵜殿であるならば、先の「鵜殿仕合ハよくも有間敷様二物語候」が鵜殿が物語したということならば、こちらにも敬語があってしかるべきであろう。だからこれは鵜殿が物語ったのではなくて楞厳坊が物語ったのだと解釈することも可能だろうけれど、逆に「種々上手をせられ」たのが鵜殿ではなくて「尾と駿」だとも解釈可能ではないかと思われ、少なくとも両方とも主語が「鵜殿」という解釈はありえないと思われ、日覚は鵜殿に敬語を使うのか否かが解釈の決定的な鍵になるかもしれない。