菩提心院日覚書状について(その5)

前回『村岡教授の考える「三州平均」は俺の考える「三州平均」とは異なる』と書いたけれど、良く読めばそうではない。村岡教授も「三州平均」とは三河全土の平定と考えているようだ。


しかし、書状が書かれた9月22日の10日ばかり前に来た楞厳坊が「只今の時分ハ攻いらんや(「今頃は鵜殿の城を攻めているだろう」という意味か?具体的な場所はともかく三河のどこかを攻めているということに疑いはない)と日覚に物語しているのだから、その時点では三河は平定されていないのである(なおこの楞厳坊の報告を便宜上以下「10日前」ということにしておく)。


この矛盾を村岡教授がどう解決しているかというと、日覚の「三州平均」は誇張だと解釈しているのであった。

これからすると鵜殿氏の本拠地たる蒲郡市付近やそれ以東の東三河の地までが、信秀上洛以前に信秀にすでに制圧されてしまっているとまでは楞厳坊が認識していなかったことも確かである。当該文書の「一国を管領」「三州平均」という表現には、あきらかに誇張が含まれているのであって、これを直ちに史実とみなすことには慎重であらねばならない。

なお楞厳坊の得た情報は教授によれば京都にいる信秀周辺から発せられたものであるから「織田信秀三河における優位を実際以上に誇るものであった可能性」への配慮が必要なものだそうだ。


俺からすれば、東三河を攻めるであろうという楞厳坊の10日前の報告を確かなものと受け取り、10日後の今日9月22日には三河は平定されているに違いないという話だと思うのだが、教授の考えでは「三州平均」の後に東三河を攻める(だろう)ということになっている。


しかしながら、教授の解釈では「弾ハ三州平均、其翌日ニ京上候、」は織田信秀三河を平らげ、その翌日に京に上ったということであるから、逆に言えば信秀が上京する前日に三河は平定されたのである。すなわち三河平均の日」ともいうべき日があったのであり「三州平均」が日覚の誇張だとしても、その日に具体的な何かがあったとしなければならない。それが何なのかについて教授は何も語っていない。


※ それが「岡崎ハ弾江かう参之分にて、からゝゝの命にて候、」のこと、すなわち「松平広忠が降参した日」が「三河平均の日」という可能性がないことはないだろうけれど。ただし俺はこれが「からゝゝの命にて候」であって「からゝゝの命の由にて候」といったような伝聞情報として書いてないことがとても気になるのである。


さて、ここからは「信秀の上洛」について。村岡教授は、三州平均の翌日に信秀が京に上ったと解釈している。俺はそうではなくて楞厳坊が(鵜殿の物語を聞いた翌日に)上京したのだと考えているのだが、とりあえず教授の説に従って考える。なお村岡教授も論文に書いているように「信秀が京都にいたとは他の史料で確認できない」ことをここに記しておく。


まず最初に思うのは、信秀は何のために京都に行ったのか?ということだ。前々から京都に行く用事があったので、戦争中だけれども席を外したということだろうか?そうではなくて「三州平均」したから上京したということだろうか?しかし既に書いたように「三州平均」は教授によれば日覚の誇張であって事実ではない。ここのところが俺には理解できない。


教授は何も説明していないので、俺が推測するしかないが、松平広忠の降伏を上京して将軍や朝廷に報告したという可能性はある。だが可能性あるといっても、そんなことで上京する例が他にあるだろうかと考えると、実際はありえないように思う。あるいは日覚の「三州平定」という「誇張」は日覚のみではなく、信秀もまた(広忠降参など)何らかの理由をもって「三州平定」とみなし、そのことを報告するために上京したのだろうか?教授によれば三河情勢は「信長周辺から発せられたもの」でそれを楞厳坊が聞いたということになっているので、その可能性はなくもない。しかしこれもまたそんな例はあるのだろうかと疑問に思う。また信秀が官位を望んだために上京したという可能性もあるかもしれない。ただし信秀は天文10年に三河守に任官されている(ただし疑問あり)ので「三州平均」で何を望むのかという疑問がある。要するに俺には信秀が上京する理由がさっぱりわからないのである。


ところで「三州平均の日」に信秀はどこにいたのであろうか?そもそも「広忠の降参」自体がこれまでの通説とは異なるものなのでそれがわからない。もし尾張にいたのなら、三河尾張の間は半日はかかるのではないかと思うから「翌日」とは、三河における「三州平均」とみなせる何らかのことがあって、その報告を聞いて即座に京に向けて出発したことになるのではなかろうか?そんなことがあるだろうか?


もし三河にいたのだとしたら、そこから上京したということになろう。しかしその場合は一度居城に立ち寄ってからそこから出発するのではないだろうか?京に上れば将軍や朝廷、少なくとも貴族への訪問があるはずで、着の身着のままというわけにはいかないだろう。清須に立ち寄ったとしても進路の中間だから「其翌日ニ京上候」で間違いはないという理屈だろうか?俺には納得いかないけれど。


いずれにしろ翌日に上京するというのはあまりにも早急すぎることで不自然なことだと思うのである。


さらに言わせてもらえば、織田信秀尾張の国主ではない。信秀の上には(名目的にせよ)守護の斯波氏がいて守護代の織田大和守家がいる。上京の目的が将軍や朝廷に何かを要望するというようなことであれば、まず彼らを通すのが筋ではあるまいか?朝廷(幕府も)は形式的であってもそういう格式を重んじるのではないか?その点でも「其翌日ニ京上候」はいかにも早過ぎるように思うのである。