菩提心院日覚書状について(その7)

村岡幹生教授は「弾ハ三州平均、其翌日ニ京上候」を「信秀は三河を平らげ(平均にし)、その翌日に京に上った」と解釈している。


一方俺は「弾ハ三州平均」「其翌日ニ京上候」に分けて「信秀は三河を平らげた」「(楞厳坊は鵜殿の話を聞いた)翌日に京に上った」と解釈した。


これは正直俺の方の分が悪い。なぜなら書状は「弾ハ三州平均、其翌日ニ京上候」であって「弾ハ三州平均」と「其翌日ニ京上候」の間に「候」が入っていないからだ。


この問題をどう解決するかといえば、俺は「候」を書き忘れたんだろうと思う。ご都合主義っぽいけれど、書状全体を見て考えた場合、そう考えるべきだろうと思うからだ。あと、そもそも村岡教授の解釈の場合でも本来は間に「候」を入れて「弾ハ三州平均(候)其翌日ニ京上候」とするのが一般的じゃないかと思うんだけれど、俺にそこまでの知識はない。


あと俺の推理では

一、彼楞厳坊申来候ハ、鵜殿仕合ハよくも有間敷様ニ物語候、其謂ハ尾と駿と間を見あはせ候て、種々上手をせられ候之処ニ、覚悟外ニ東国はいくんニ成候間、弾正忠一段ノ曲なく被思たるよしに候、定而彼地をも只今の時分ハ攻いらんやと致物語候間、あまりニ■■許存候間、近日心■坊を可差遣覚悟にて候、岡崎ハ弾江かう参之分にて、からゝゝの命にて候、弾ハ三州平均、其翌日ニ京上候、其便宜候て楞厳物語も聞まいらせ候、万一の辺も候てハ、門中力落外見実義口惜次第候、

には、下書きがあって、当初の案では

彼楞厳坊申来候ハ、鵜殿仕合ハよくも有間敷様ニ物語候、其翌日ニ京上候、其便宜候て楞厳物語も聞まいらせ候、

だったのではないかと思う。でもそれじゃ説明不足だということで清書の際に色々付け加えたのではないだろうか?と考えている。


昨日俺が推測したように、京の本禅寺は楞厳坊の話を聞いたけれど、それを総本山の本成寺に伝えなかったのではないかと思われる。信秀は鵜殿を攻めないという確かな情報があったのではなかろうか?それに納得できない楞厳坊は日覚に直訴して日覚から伝えてもらおうと考えた。日覚はその事情を知っていたから、本成寺もまたこの情報を軽視しないようにと詳細に(かつ大げさに)伝えたのではないだろうか?


まあ、ここまでくると推理に推理を重ねてしまって小説みたいになってしまうんだけれども、基本は村岡教授は楞厳坊は京で情報を入手したと考え、俺は三河の鵜殿から情報を入手したと考えているという違いであって、どっちを取るかで話は全く違ったものになってしまうのであり、両者とも問題点があるけれど、俺は俺の考えの方が問題点が少ないと考えているのである。しかし俺が考えたことを俺が分があると言ったところで自画自賛になってしまうのであった。