『御伽草子』の「浦島太郎」は糞設定なのか?

まだ確定したわけではないけれど、現状の俺の考えでは、『御伽草子』の「浦島太郎」は余計な設定を入れたために、却って奇妙度が増している、と思わざるをえない。


浦島太郎は異界で3年を過ごした。異世界の3年は現世界の700年に相当するので、故郷に帰ってきたときには700年が過ぎていた。


それだけでいいのに、

此の浦島が年を龜が計らひとして、筥の中にたゝみ入れにけり、さてこそ七百年の齡を保ちけれ。明けて見るなとありしを明けにけるこそ由なけれ

なんて説明をするから話がややこしくなる。しかも浦島太郎は3年が経過しても700歳どころか1歳も年をとっていない。


わけがわかりませんがな。


まず「異世界の3年は現世界の700年に相当する」これはもう確定でいいんだろうと思う。ただしまだ違う可能性が残されているようにも思うけれど。


これを採用すれば、浦島太郎は3年だけ年を取るはずだが取らない。なぜなら「亀のはからい」があったからだ。この「亀のはからい」がどんなものだったのかがよくわからない。なぜそんな「はからい」をしたのかといえば、3年で3歳年を取るだけならそんなことする必要はないと思われ、3年が700年で浦島が急速に老けてしまうからそうしたんだと思われ。とにかく浦島は全く年を取らなくなったと考えられる。普通に考えれば寿命がなくなったということだろう。


しかしそれじゃ「鶴は千年龜は萬年」との整合性はどうなる?長生きとはいえ寿命があるではないか。これはまあ、正確には「寿命がなくなったわけではない」という解釈も可能かもしれない。天人五衰といって、人から見れば永遠の命があるように思われる天人にも寿命があるのだと。で、その寿命はどれくらいかといえば、「鶴は千年龜は萬年」だから浦島太郎は千年の寿命があると考えるのが自然かもしれない。


ところがだ、この千年というのは現世界での千年である。そして異世界での3年は現世界での700年に相当するのである。すなわち残りの寿命は300年。だとすると龍宮城で浦島はあと1年ちょっとしか生きられないことになってしまう。


ついでに亀は万年だけれども、1年が700/3倍になるので換算すれば約42.85歳が寿命。現在20歳としてあと約23年しか生きられない。人から見ればうらやましく見えるかもしれないけれど亀からすれば大してめでたいことではない。


いや亀は浦島とは事情が違うのだ。亀は龍宮城でも(体感的な)1万年を生きるのだということかもしれない。しかしそれだと、浦島太郎は700年を3年と感じて違和感がなかった(そう考えるのが自然でしょう)のだから、亀から見ればひどくのろまな動作をしていたことになってしまうでしょう。亀が浦島に何か話しかけても700/3倍のスピードで聞こえるから何を言っているのかわからない。わかるようにゆっくり話をするのには3/700のスピードで話さなければならない(まあ亀はのろまっていうのが相場だけど)。しかしそんな夫婦生活がありえようか。


という俺の考えのどこかが間違っているのか、それともやはり『御伽草子』の設定が糞なのか?そこがただいま頭を悩ませているところ。


御伽草子』が糞設定だったとしても、別に『御伽草子』の作者を非難するのが目的ではない。なぜそんな設定になってしまったのかを考えれば、浦島説話の成立および変遷、浦島説話とは本来どんな話だったのかということのヒントが見つけられるのではないかというのが目的である。


それをするには『御伽草子』の「浦島太郎」を正確に解釈する必要がある。しかしそれがなかなか難しい。