(諏訪で)信長が光秀を折檻したという伝説はいつ発生したのか?(その2)

信長が光秀を折檻したという話自体は複数あって、有名なのは例の「きんかんあまた」の話(『義残後覚』)。ただしこれは「あるとき」であり「庚申待」で諸士が酒宴乱舞していたときのことだ。同種の話が『続武者物語』と『柏崎物語』にもあるというが未読(活字化されてないと思われ)。『柏崎物語』では天正10年5月の安土でのこととしているそうだ。


また光秀の元にいた斎藤利三稲葉一鉄が返せと信長に要求し、それを信長が光秀に伝えたところ、光秀が拒否したので信長が怒って折檻したという話もある。これは天正10年3月3日の節句の時で岐阜でのことらしい。


これらは信長が光秀を折檻したという点では類似しているけれども、諏訪の法華寺で折檻したという話とは別ということになろう。


諏訪法華寺の話と酷似しているのは『祖父物語(朝日物語)』という史料である。というか、法華寺の話と『祖父物語』は単に似ているのではなくて、法華寺の話の出典は『祖父物語』であると考えられる。というのも『明智光秀』(高柳光寿)に

第五は法華寺の一件である。甲州征伐のとき信長は諏訪の法華寺に陣取った。そのとき光秀は、かような目出度いことはない。われらも年頃骨折った甲斐があって、諏訪郡のうちはみな上様の兵だといった。それを信長は、お前はどこで骨を折って武功を立てたかといいながら、光秀の頭を欄干に押しつけて打擲したという。この話は『祖父物語』が伝える話である。この物語はよいところがないわけではないが、いい加減なところが多い本である。この話にしても、光秀という男はこんな軽率な、こんな迂闊なことを言う男ではない筈である。もっと用心深い男である。これも信用はできないこと勿論である。

と、否定的見解ではあるが紹介してある。光秀の「性格」でこの話が事実か否かを判断するのはいかがなものかとは思うけれど、それはともかく、諏訪の法華寺で信長が光秀を折檻したということが『祖父物語』という史料に載っている。これがすなわち

信長が激怒し明智光秀の頭を打ちすえたのはこの寺だったと伝わっています。

ということであろう。


ところがこれには問題が大いにあるのだ。


というのも、『祖父物語』には「法華寺」なんて語句は出てこないからだ。


(つづく)