(諏訪で)信長が光秀を折檻したという伝説はいつ発生したのか?(その3)

信長が光秀を諏訪の法華寺で折檻したという話の出典だと考えられる『祖父物語』には実際になんと書いてあるのか?該当部分を引用する。

信州諏訪郡何レノ寺ニカ御本陣可被置ト。其席ニ而明智申ケルハ。扨モ箇様成目出度事不御座。我等モ年来骨折タル故。諏訪郡ノ内皆御人数也。何レモ御覧セヨト申ケルハ。信長御気色替リ。汝ハ何方ニテ骨折武辺ヲ仕ケルヲ。我社日頃粉骨ヲ盡シタル悪キ奴ナリトテ。懸造リノ欄干ニ明智カ頭ヲ押附テ扣キ給フ。其時明智諸人中ニテ耻ヲカキタリ。無念千万ト存詰タル気色顕レタル由傳タリ。

近代デジタルライブラリー - 続群書類従. 第21輯ノ上 合戦部

見ての通りどこにも「諏訪の法華寺」などとは書いてないのだ。ただし「信州諏訪郡何レノ寺ニカ御本陣可被置ト」とは書いてある。『信長公記』に

三月十九日上の諏訪法花寺に御居陣

とあり、信長が諏訪法華寺に本陣を置いたのは確認できる。高柳氏も

甲州征伐のとき信長は諏訪の法華寺に陣取った。

と書いている。だから『祖父物語』にある「信州諏訪郡何レノ寺」とは法華寺のことであり、出来事は法華寺で起きたことだ、と考えたのかもしれないけれど、「信州諏訪郡何レノ寺ニカ御本陣可被置ト」とはそういう意味ではない。


「信州諏訪郡何レノ寺ニカ御本陣可被置ト」とは「信州諏訪郡にある寺のどれかに本陣を置くことにする」という信長の命令である


すなわち、この段階ではどこの寺に本陣を置くのか決まっておらず、それを今から調査して決定せよということだ。「何レノ寺ニカ」とは信長の本陣が法華寺だということを知らなかったからそう書いたのではなくて、この時点では決まってなかったから「何レノ寺ニカ」なのである。


その証拠に、『祖父物語』のこのエピソードに続けて

諏訪寺ノ御入ノ時

とある。ここから後に書かれていることが諏訪法華寺での出来事であって、それより前に書かれていることは、信長が諏訪に入る前のことなのだ。


では、どこでの出来事かといえば、それはずっと前の部分、『祖父物語』の冒頭に書いてある。

信長公甲州ヘ御出陣アルヘシトテ。安土ヲ御立有ケルカ。濃州六ノ渡ニテ信州伊那郡高遠ノ城主仁科五郎カ首曲ケ物ニ入ル。信忠ヨリ飛脚持来ル。

とあり、そこから光秀の折檻までは全て同じ場所での出来事であり、すわわち「濃州六ノ渡」(呂久の渡)での出来事である。『信長公記』では

三月五日、信長公、隣国の御人数を召し列れられ、御動座。其の日、江州の内、柏原上菩提院にお泊り。翌日、仁科五郎が頸持たせ参り候を、ろくの渡りにてご覧じ、

とある時のことだ。


なお信長は光秀の頭を「懸造リノ欄干」に押しつけたとある。「懸造(かけづくり)」とは

山の崖(がけ)や河の岸に張り出してつくられた建造物。懸崖(けんがい)造、崖(がけ)造ともいう。京都市清水寺(きよみずでら)本堂、鳥取県三朝(みささ)町の三仏寺投入堂(さんぶつじなげいれどう)など著名。

懸造(がけづくり)とは - コトバンク
のこと。「呂久の渡」にそのような建造物があることは十分ありえよう。一方、諏訪法華寺の画像を調べたけれど少なくとも現在の建造物に懸造はなさそうだし、グーグルマップで見たことろでは懸造の建造物を建てる地形ではないように思われる(これはあくまで印象だけど)。


以上の理由により、諏訪法華寺で信長が光秀を折檻したという話は事実か否かという以前に、そもそも『祖父物語』を誤読したものであろうと思われる。


この誤読がいつから始まったのかは正確なことはわからない。『明智光秀』(高柳光寿)の初版は昭和33(1958)年だから、ここから全てが始まった可能性はある。


(つづく)