(諏訪で)信長が光秀を折檻したという伝説はいつ発生したのか?(その5)

繰り返すが『祖父物語』において信長が光秀を折檻した場所は諏訪の法華寺ではない。美濃の呂久の渡であると読解するべきである。それを諏訪での出来事と「誤読」し、信長が法華寺に本陣を置いていたことから、法華寺で光秀は折檻されたという「新しい伝説」が誕生したのだと考えられる。


ところがここに一つとても気になることがある。


それは『太閤記』の記述だ。


『川角太閤記』については『明智光秀』(高柳光寿)でも言及がある。先に書いた稲葉一鉄斎藤利三を返せと信長に訴えて、信長が光秀に返してやれと言ったら光秀が拒否したので信長が激怒したという話。これは『続武者物語』などに載る話だそうだが(俺は未読)、この話は高柳博士によれば、

『川角太閤記』から起こった話

だそうだ。その『川角太閤記』に何と書いてあるかといえば、

於岐阜三月三日の節句大名高家の前にて面目失ひし次第

とあるのみだ。この話が膨らんで上の話になったというのが高柳博士の主張だと思われる。


しかしここで問題にしたいのはそこではない。その後に続く部分が問題なのだ。上の引用部分をもう少し後まで拡大すると、

於岐阜三月三日の節句大名高家の前にて面目失ひし次第其後信州諏訪にての御折檻

とある。


『川角太閤記』に光秀は諏訪で信長に折檻されたと書いてあるのだ。ただし『川角太閤記』にその詳細は書いてない。


だとすれば『祖父物語』の記述はやはり諏訪法華寺でのことではないかと不安になってくる。しかし何度読み返そうとも『祖父物語』を諏訪で折檻されたと読解することは不可能である。とはいえ『祖父物語』の折檻の話とは別に、諏訪で折檻されたという話があったというのも、たとえそれが史実ではなくても不思議な感じがする。


ここで気になるのは『祖父物語』と『川角太閤記』のどちらが先に成立したのかということ。検索すると『祖父物語』は1607年(慶長12)頃成立とある。一方『川角太閤記』は江戸時代初期とあり、どっちが先なのかはっきりしない。
史料リスト・江戸時代−歴史書−
川角太閤記 - Wikipedia


これはあくまでも推測だけれども、『祖父物語』が先に成立し、それを読んだ『川角太閤記』の作者が「誤読」して諏訪で折檻されたのだと自著に記したのではないだろうか?


そして数百年の時が経過し、今度は『川角太閤記』に諏訪で折檻されたと書いてあることから、『祖父物語』に諏訪の法華寺での折檻が書いてあるという「誤読」が発生してしまったのではないだろうか?


そんな複雑な経緯があったように思われるのである。


※ ただ俺が見ている『祖父物語』は「続群書類従」のものである。「群書類従」を信用するのは実のところ問題がある。だから実は諏訪法華寺で問題ないという可能性は多少はある。とはいえ、折檻の記述の後に「諏訪寺ノ御入ノ時」とあるのだから、可能性は多少はあるとはいえ、やはりこれは信長が諏訪に入る前の事件だと考える方が遥かに理に適っているのである。