(諏訪で)信長が光秀を折檻したという伝説はいつ発生したのか?(その6)『祖父物語』

信長公甲州ヘ御出陣アルヘシトテ。安土ヲ御立有ケルカ。濃州六ノ渡ニテ信州伊那郡高遠ノ城主仁科五郎カ首曲ケ物ニ入ル。信忠ヨリ飛脚持来ル。其首大髷ニテ年廿ハカリニ見ユル。

(信長公は甲州へ御出陣すべしと安土を出立したところ、美濃呂久の渡にて、信濃伊那郡高遠城主仁科五郎の首が曲げ物に入れられて信忠よりの飛脚によって持ち来たった。その首は大髷で年は20ばかりに見えた)
※ 『信長公記』によれば3月6日。

其時菅谷九右衛門。野々村三十郎。福留平左衛門。下石彦右衛門馬ヨリ飛下リ。御首途ニ五郎カ首来ル。目出度由ヲ賀シ申ケレハ。信長公御気色替リ何ヲ以可目出度。

(その時、菅谷九右衛門、野々村三十郎、福留平左衛門、下石彦右衛門が馬より飛び下りて、「首途(出陣のかどで)に(仁科)五郎の首が来るとはめでたい」と賀し申したところ、信長の気色が替り「何をもって目出度いというのか」と言った。)
※「首途(かどで)と首」をかけたもの。

若輩ナル奴原深入シテ被追立者。首尾能可討死者ハ瀧川一人也。外奴原ハ芭蕉葉ニ而ハイヲ捨コトク成ヘク先勢不残被討タリトモ。遠方ナレハ早速吊合戦モ成ヘカラストテ。殊外ノ御気色也。

(若輩なるやつらめ。深入りして追い立てられれば、首尾よく討死して良いのは瀧川一益ただ一人である。他のやつらは芭蕉の葉で灰を捨てるがごとくに成るだろう。先勢が残らず討たれてしまったとしても遠方だから早速とむらい合戦をすることもできない、と殊の外の様子であった。)
※ 滝川一益は熟練した武士なので自己の判断で深入りして討死しても許されるが、若輩者が同じことをするのは許されないということか?

是ハ御子息達無分別深入シ玉フタル思召ナリ。初ハ御悦ヒ申タル仰ノ旨ヲ承リ。実モト奉感。

(これは御子息の信忠達が分別なく深入りしたと信長が思ったからである。はじめはお喜び申したる仰せを承り、実はこのように感じ奉っていたのだ。)
※「仰」とあるから、信長が喜んだ様子を見せていたが心の底ではそうではなかった。周囲の者から無神経に目出度いと言われたので、態度を変えたという意味だろうか?


俺の解釈ではここから光秀への折檻までは同じ日の出来事ということになるので、この日に既に信長は「目出度い」と言われて気分を害していた


それを知ってか知らずか、光秀は信長に対してまた「目出度い」と言ってしまった。知らなかったのなら、信長が光秀を折檻したのは光秀だけに非があるのではなくて、信長が気分を害していたところにまたそんなことを言ったからで運が悪かったということになる。知っていたのなら光秀は「空気読めないやつ」ということになる。


史実かどうかはともかく(まあ史実じゃないだろうけれど)そういう「物語」として作られているのだろうと思う。