(諏訪で)信長が光秀を折檻したという伝説はいつ発生したのか?(その8)

もう十分書き尽くしたとは思うけれど、さらに補完的なことを書いておく。


まず『祖父物語』に勝頼が討たれた記事がないなど省略が多いという件。
https://twitter.com/kirinosakujin/status/694382926058749953


これはおそらく『川角太閤記』に

是ハ信長記 御座候間不入儀にて御座侯へとも乍去次第不同無之ために如此書付申侯事

とあるように『祖父物語』も「信長記」に書いてあることは基本的に省略し、それ以外のことを記す。または「信長記」の誤りを訂正するというスタンスで書いているからではないかと推測する。確証はないけれど…


で、この「信長記」とはどの「信長記」なのかと考えるに『祖父物語』の成立が1607年(慶長12)頃なのだとすると『甫庵信長記』はまだ成立していないと思われ、太田牛一の『信長公記』ではないかということになる。


ただし『甫庵信長記』の記述に、

同六日に濃州六の渡りにて仁科五郎が頸を持たせ参り、甲斐・駿河信濃三箇国、信忠卿御退治の様子言上す。公御感悦斜ならずして、

尤も当家相続すべき器に当れり。大慶何事か之に如かん哉。

容易く乗取り侯事、最も名誉なりとて御感斜ならざるなり。

(『信長記 下』現代思潮社
と信忠を褒めちぎっており、一方『祖父物語』は

是ハ御子息達無分別深入シ玉フタル思召ナリ。初ハ御悦ヒ申タル仰ノ旨ヲ承リ。実モト奉感。

とあって、「初ハ御悦ヒ申タル仰ノ旨」と、その前にそんなことは書いてないのにいきなり出てくる所が『甫庵信長記』の記述を前提にしたもののように感じられる。しかし『祖父物語』が1607年成立なら『甫庵信長記』を見ることはおよそ不可能であろう。


なお信長が信忠達が深入りしたと考えて気分を害したというのは、『織田信長文書の研究』にある滝川一益宛朱印状の

城介事わかく侯て、此時一人粉骨をも尽之、名を可取と思気色相見侯間、(以下略)

とか、河尻秀隆宛黒印状の

城介事、是も如言上、信長出馬之間ハ、むさとさきへ不越之様、滝川相談堅可申聞候、此儀第一肝要侯、

とあるように、信長が若輩の信忠が功をあせって失敗しないか非常に気にしていたという情報を『祖父物語』の著者が、どのようなルートでだかわからないけれど入手したことによるものであろう。ただし、信忠が仁科五郎を討ったことを信長が深入りしすぎたと感じたということは事実ではなかろう。なぜならば信長は高遠攻めを承認して指示しているからである。しかもこれは上の河尻秀隆宛黒印状に記してあることだ。信長が心配しているのは信忠が甲斐の武田本隊を性急に攻めることであろう。というわけで中途半端な情報を元に作成した嘘話であると思われる。


信長公記』によれば信忠は3月2日に仁科五郎(盛信)を打ち取り、翌3月3日に上の諏訪表に乱入。諏訪大社に放火。よって3月6日に信長が呂久の渡にいたときに、仁科五郎の首が届いたと同時もしくは程なく、諏訪を制圧した情報も入ってきたであろう。『祖父物語』で光秀が

諏訪郡ノ内皆御人数也

と発言したのがこの時だという解釈は十分成り立つのである。なお信長が怒ったのは

我等モ年来骨折タル故

に反応したものだと解釈できるけれども、話の文脈からすれば信忠の深入りを憂慮していたのであり「諏訪郡ノ内皆御人数也」も「深入り」の結果だから目出度くないのであり、「骨折」発言以前の「目出度」と言われた時点で爆破スイッチが押されていたと解釈すべきであろう。


ところで、先に書いたようにもし『祖父物語』の著者が『信長公記』を読んでいたのならば、信長本陣が諏訪法華寺であることを知っていたのであり、「何レノ寺ニカ」が著者がどこの寺かわからずに「某寺」という意味で書いたのではないことになるだろう。


ただ多少気になるのは『甫庵信長記』には信長本陣を「上の諏訪法養寺」としていることで、もし『祖父物語』の著者がそれを知っていたならば「法華寺」か「法養寺」かわからないという事態が発生した可能性がありえるけれども、先に書いたように『祖父物語』が1607年頃成立ならばそれはないであろう。


なお法養寺というのは検索してもヒットせず、実在しないのではないかと思われる。しかしながら江戸時代に一般に読まれたのは『信長公記』ではなく『甫庵信長記』の方であり、したがって江戸時代に「光秀が諏訪の寺で信長に折檻された」という解釈があったとしても、その寺は「法養寺」と結び付けられるのが自然であり、法華寺において折檻されたという「伝説」が誕生するのは、近代になり実証史学によって『信長公記』が重視されて以降のことだと考えられ、法華寺や諏訪地方で古来言い伝えられてた話である可能性はほとんど無いであろう。


ちなみに『綿考輯録』にも諏訪法養寺とあるそうだ。
https://twitter.com/kirinosakujin/status/694052520130314240
可能性としては、本陣が「法養寺」にあったという説があって、それを『甫庵信長記』と『綿考輯録』が採用したか、もしくは『綿考輯録』が『甫庵信長記』を採用したかということではないかと思われるが、おそらく後者だろう。