信長の岐阜改名について

既に何度も書いてるけれど『政秀寺古記』によれば、

 稲葉山城へ入場した信長は、「天下布武」の印文を選定した禅僧沢彦(*注)に「井ノ口は城の名前が悪い」と別の名称を選ばせました。【政秀寺古記】によると、沢彦は、「岐阜」・「岐陽(ぎよう)」・「岐山(ぎざん)」の三つを示し、その中から信長は【岐阜】に決定しました。そして「祝語(しゅくご)はないか」と問うと、沢彦は「古代中国の周(しゅう)王朝は【岐山】の麓から起こり、中国全土を平定しました」という故事を披露しました。信長は大変喜んで、沢彦に多くの褒美を与えた、と記しています。

岐阜観光コンベンション協会|織田信長と岐阜 9.「麟象」花押・「天下布武」印章
とあり、信長は沢彦が示した「岐阜」・「岐陽」・「岐山」の三つの中から岐阜を選んだのであって、周の武王の故事にちなんで選んだのではない。周の武王云々は選んだ後の話である。ただし俺は原文を見ていない。


一方、『安土創業録』については、前に『岐阜史略』の内容を書いたけれど、別ソースがあった。

「信長は井口の城手に入れければ、澤言和尚(政秀寺開山)へ使者を以て茲に来給へと宣ふ、澤彦井口に到る。信長兼て小侍従といふ者に宿を仰付らる。信長、澤彦に対面せられ、井口は城の名悪し、名を易給るべしと、澤彦考て岐山・岐陽・岐阜此内御好次第に可然と申ける信長曰く諸人云よき岐阜に候はん、祝語も候哉。澤彦曰、周文王、起岐山定天下の語あり、此を以て岐阜と名付候。無程天下を知召候はんと。信長感悦斜ならず、額の名盆に黄金を積んで賜り、此盆は豊後の屋形より来る、秘蔵有べしと仰せける」

ちなみに

岐阜は織田信長始て名付られしとぞ創業録に曰信長は井ノ口の城手に入けれは澤彦和尚へ使者を以て爰に来り給へ宣ふ澤彦井ノ口に到る信長兼て小侍従と云者に宿を仰付らる信長澤彦に対面せられ井ノ口は城の名悪し名を易給へと澤彦老師岐山岐陽岐阜此内御好次第にしかるべしと信長曰諸人云よき岐阜然るべしと祝語も候哉と澤彦曰周文王起岐山定天下語あり此を以て岐阜と名付候無程天下を知召候はんと信長感悦不斜額の名盆に黄金を積て賜り此盆は豊後の屋形より来る秘蔵有へしと仰せける

若干違うけどほぼ同じ。『岐阜史略』は要旨を書いてるのかと勘違いしてたけど、まんま引用していたものだった。そして『政秀寺古記』の内容ともほぼ同じ。


ただし「此を以て岐阜と名付候。無程天下を知召候はんと」は、『政秀寺古記』に記載されているのか、上の「織田信長と岐阜」の筆者が省略したのか不明。これをどう解釈するかだけれど「周の故事を聞いて岐阜と名付けた」と解釈できなくもない。しかしその前に「諸人云よき岐阜に候はん」または「諸人云よき岐阜然るべし」と言ってるのだから、その時点で決定していると解釈すべきだろう。「此を以て岐阜と名付候」とは、「こういうやり取りがあって岐阜となりました」という意味だと思う。そもそもどれを選んでも「祝語」は同じだろうし。


また「無程天下を知召候はんと」は、「程なく天下を支配するでしょう」と澤彦が言ったという意味に受け取れる感じがしなくもないけれども、そうではなくて「信長は程なくして天下を支配することになった」という意味だと思われる。つまり井口を岐阜と改名したことで信長の運気が上がり、その結果として(周のように)天下を支配することとなったということを、この文章を書いた時点での感想として言っているのだと思う。


だから、信長が故事を聞いて喜んだというのは、信長が周の文王のように天下を支配する意図があったから喜んだとは限らず、単に「おめでたい故事があるから」喜んだだけのことかもしれない(この話が史実だとしたらの話だが)。


次に新しく仕入れた情報なんだけれど『蘭叔録』という史料に

昔周西伯 殷辛、相攸(ところ)岐陽也、都之者八百六十餘年、太守之大功不以讓矣、仍改井口爲岐阜、不亦宜乎、

とあるそうだ。何て書いてあるのかよくわからないけれども、「周の故事にならって岐阜と改めた」と読めるかもしれない。というか『岐阜市史』の勝俣鎮夫氏はそう解釈している。しかしこれも、まず岐阜への改称があって、その後で(これが書かれたのは天正3年)、岐阜という文字は縁起がいいので、井口から岐阜に改めたのは「不亦宜乎」(「もっともなことだ」という意味か?)という感想を述べているという順番ではないかと俺は思う。つまりこれを書いた人は、どういう理由で岐阜に改めたかは知らなかった可能性だってある。単に名前がいいからいいと言ってるだけなのかもしれない。