信長の岐阜改名について(その3)

やっと『政秀寺古記』の記事の詳細がわかった。ブログ主の「事代るか」さんには大感謝ですわ。
岐阜の由来|★織田信長の夢★ 鳴かぬなら 鳴ける世つくろう ほととぎす


『安土創業録』とほぼ同内容。


ただし「井の口」の名が悪いと信長に言ったのが平手政秀だという話が付け加えられている。『安土創業録』が省略したという可能性もあるけれど、省略する理由は特に無いと思われ、「政秀寺」の寺伝なんだから、平手政秀も登場ささせたんじゃなかろうかと思う。


沢彦が「岐山岐陽岐阜」の3つを提案して信長が「岐阜」を選んだ。そして「祝語」はないかと聞いた。その後が問題で、

澤彦登城候へば信長卿曰は、ひとたび天下を望み候に能名にて候かと仰せ候と也。
澤彦曰く、文王起岐山定天下(文王岐山に起こり、天下を定む)之古語あり。
此語を以て岐阜と名付候へば、天下もほどなく御手に入り候はんと言上候へば、御感不斜(斜めならず)、

信長が「祝語」を聞いた意図は「天下を望むのに(岐阜)は良い名前か」ということを確認するためであった。それに対し沢彦は周の文王の故事を出して「岐阜と名付ければ天下もほどなく手にはいるでしょう」と答えたら信長は機嫌が良かったという。


この部分、『安土創業録』では

澤彦曰、周文王、起岐山定天下の語あり、此を以て岐阜と名付候。無程天下を知召候はんと。信長感悦斜ならず、

とあり、これを沢彦が「周文王、起岐山定天下の語があります。これをもって岐阜と名付けました。(信長様は)程なく天下をお取りになるでしょう」と言ったら、信長の機嫌が良かった。という意味で読めそうではあり、『政秀寺古記』と似たことを書いているように見えなくもないけれど、これはそういう意味ではなくて、沢彦の発言は「周文王、起岐山定天下の語あり」だけであって、そこで文章を区切るべきである。


「此を以て岐阜と名付候。無程天下を知召候はんと」は『創業録』の著者の言葉であって、「このような経緯があって(信長は)岐阜と名付けました」「その後程なくして(信長)は天下を支配することになったということです」という意味であろう。それにこれを沢彦の言葉と解釈したら文脈上「岐阜」と名付けたのは沢彦ということになってしまう。


『安土創業録』と『政秀寺古記』の前後関係がわからないんだけれども、『政秀寺古記』は『安土創業録』または『安土創業録』と類似のことを書いてある史料を誤読したのではないだろうか?


さらにいえば、岐阜の「祝語」が周の故事だからといって、それで天下を取れるなんで、全く非合理な話である。信長のエピソードに、父の信秀が危篤になったときに、僧侶が祈祷すれば治るみたいなことを言ったけれど信秀は死んでしまったので、祈れば助かるんだろうから自分達が助かるように祈れみたいなことを言って僧侶を監禁して殺してまったみたいな話があるわけで、信長は喜ぶどころか激怒して、下手したら沢彦の命も危なかったであろう。もっとも岐阜命名のこの話が全くの創作なら(創作上の)信長が喜ぶのもありかもしれないけれども。


また、ご存知のように近年の学説では、信長は天下統一を目指していたのではなく、五畿内(天下)での将軍権力の樹立を目指していたと言われているので、それならば『政秀寺古記』の話はありえない。


なお、『政秀寺古記』においても信長は周の故事にちなんで「岐阜」と命名したのではない。あくまで「岐阜」を選んだ後に「天下を望むのに良い名か?」と聞いて、良い答えが返ってきたので喜んだという話である。


それと昨日も書いたけれど、「岐山」「岐陽」「岐阜」の3つの案の全てに「岐」の文字が入っているのだから、沢彦が案を決めた時点で、信長がどれも気に入らないということがあれば話は別だけど、信長がどれを選んだとしても、「祝語」は「周文王起岐山定天下」なのである。