惟任日向

 七月三日、信長御官位を進められ候への趣、勅諚御座候と雖も、御斟酌にて御請けこれなし。
 併しながら、内々御心持候ふや、御家老の御衆、友閑は宮内卿法印、夕庵は二位法印、明智十兵衛は惟任日向になされ、簗田左衛門太郎は別喜右近に仰せ付けられ、丹羽五郎左衛門は惟住にさせられ、忝きの次第なり。

『新訂 信長公記』(新人物往来社

「惟任」「惟住」「別喜」とは何ぞや?という疑問は検索すればネット上に数多くあって、それなりの答えも書いてあるんだけれど、それが正確な答えなのかはよくわからない。


これは信長の官位を進めるとの勅諚があった。信長はそれを辞退し代わりにに家老衆が…という話。


松井友閑は「宮内卿」の官職と「法印」の僧位を賜った。俺はこういうこと無知なんでわからないけど「宮内卿法印」という人は他にもいるから「宮内卿」と「法印」はワンセットなのだろう。


武井夕庵は「二位法印」。この「二位法印」という人も他にもいる。この「二位」とは何だろうか?官位にしては高すぎると思うけど。二位法印尊長の父は正二位なので、元々は二位だったけれど形骸化したってことだろうか?


で、明智十兵衛は惟任日向。日向は「日向守」だけれど「惟任」ってなんだ?って話。一般には九州の名族の名字と言われている。おそらくそうなんだろう。なお「源平藤橘」などの姓ではないと思われる。なぜなら織田弾正忠とはいうけれど平弾正忠とは言わないから。


ただ疑問なのは、賜姓というのは聞いたことがあるけれど、名字を賜るという話を俺は聞いたことがないってこと。俺が知らないだけで実は普通にあるのだろうか?そこがわからない。


「賜名字」という言葉はあるみたいだけれど、天皇が与えるというようなことでは無いっぽい。
賜名字/四民/氏名 : 日本の人名用語博覧


「惟任」の名字を与えたのは信長で、その「惟任」が日向守の官職を賜ったということだろうか?でもそれだと丹羽長秀の場合は「惟住」だけで官職が書いてないから、多分違うのだろう。


あと、これは定かではないんだけど、毛利元就が朝廷から「惟○」という号だか、なんだかを与えられたという話をどこかで読んだ記憶がある。たしか紹巴が使者として赴いたんじゃなかったかと思う。それとこれとは関係あるんだろうか?(追記:この部分記事をコピーしたはずなんだけれど見つからない。細部はともかく「惟なんとか」とあったのは確実だと思うんだけれど…)


(追記20:05)
中近世転換期の系図家たち - 名古屋大学

古代の天皇は氏(うぢ)と姓(かばね)を変える権限を有していたが、名字の改変についてなんらかの勅許を下した事例はない。

天正三年(一五七九)七月、明智光秀は「惟任」、丹羽長秀は「惟住」、簗田政次は「戸次」、塙直政は「原田」と織田信長の命により改名したがやはり天皇の姿はどこにもない(「原本信長記」)。

「惟任」は天皇から与えられたというのがネット情報の大半に書かれていることだと思うけれども、信長の命と断言されている。これが学界では定説になっているのだろうか?