「西上」とは何か?(その2)

「西上」を歴史学者がどういう意味で使っているのか?図書館で調べるべきところだが手っ取り早くネット検索。


小和田哲男氏は『<武田信玄 上杉謙信 北条氏康と戦国時代>徹底比較!三英雄統治ノウハウ』(歴史群像)で

そこで問題になるのが元亀三年(一五七二)から翌天正元年にかけての信玄の西上をどう考えるかである。

とある。続けて信玄に上洛の意志があったか無かったかという問題についての諸説を紹介しているのだが、俺の考える「西上」の意味では、どう考えるも何も「西上」とあるからには上洛するという意味なので、ここで言う「西上」とはどういう意味なのかが謎である。普通に考えれば上洛する意志の有無に関わらず西を攻めたから「西上」ということになるんだろうけれど、そういうことなのだろうか?


次に鴨川達夫氏の『武田信玄の「西上作戦」を研究する』という論文。その冒頭に

武田信玄のいわゆる「西上作戦」に対する私見

と書いている。「いわゆる」とあるのは鴨川氏が「西上作戦」という呼び方を適切だとは考えていないけれど、そう呼ばれているので鍵括弧付で表記するというニュアンスがあると思われる。しかしながら、なぜ鴨川氏がそう考えるのかは(少なくとも俺には)明瞭に伝わってこない。その「西上作戦」の注に

元亀三年(一五七〇)[原文ママ7]冬、信玄が遠江三河方面に侵攻した事実を、このように呼ぶことがある。この行動は翌年に及び、よく知られているように、信玄はそのまま陣中で没した。

とあるが、この説明には「上洛」という言葉が出てこない。そこから考えるに、上洛目的ではない、すなわち「西上」ではないから「いわゆる西上作戦」と表記したのではなく、別の理由がある感じがしてしまうが本意がわからない。また論文自体にも「上洛」という言葉は一度も出てこない。


鴨川氏の主張は、『武田信玄と勝頼』によれば、信玄は信長と戦うことに積極的だったわけではないが対決する意志はあり、

岩村を経て岐阜に進むこと、つまり岐阜を本拠地とす信長と対決することが本線であり、遠江三河への一撃と飛騨への工作は、本線の南側と北側に安全地帯を作ろうとした

というものであろう。そこから考えれば、遠江侵攻自体は準備のための戦だから、これを「西上作戦」と呼ぶのは不適切ということではないかとも思われるけれども、明瞭に書いてないから、それでいいのか解釈に悩むのであった。また、鴨川氏の主張が正しいとして、その本線の作戦が実行されたとすればそれが「西上作戦」となるのかも、普通はそうなるんじゃないかと思うけど、岐阜で信長を倒して上洛しないで引き返す可能性もゼロではないとか色々悩む。


なお、ややこしいことに、信玄の遠江侵攻の経路として、駿河から「西進」したという説と、信濃から「南進」したという説があり、鴨川氏は南進説を採り西進説を否定していることがこの論文でも主張されているから、それをもって「西上作戦ではなく南下作戦だ」と言わんとしてるのかとも考えたけれど、さすがにそれは無いだろう(と思う)。


(つづく)