「西上」とは何か?(その4)

「国立国会図書館デジタルコレクション」で「西上」を調べてみる。「西上」だけでは余計なものも引っかかるのでNDC分類「歴史」で絞り込むと78件あった。


・『安土桃山時代』(国民の日本史 ; 第8編) / 西村真次 著 (早稲田大学出版部, 1922)第一節 信長の西上
・『安土桃山時代史』(早稲田大学卅七年度史学科第二学年講義録) / 渡辺世祐 述 (早稲田大学出版部, 1905) 第六章 信長の西上
上2件は足利義昭を奉じた上洛戦のこと


・『偉人周布政之助翁伝』妻木忠太 著 (有朋堂書店, 1931)
第十三章 藩公の西上と翁の斡旋
第十五章 翁の西上と攝海戰守の建議 ​
文久2年の藩公(長州藩毛利敬親)入京と文久3年の翁(周布政之助)入京のこと。もちろん江戸から西上したのである。


・『伊奈城と膳所城』旧膳所藩祖三百五十年祭典大記念会 編 (旧膳所藩祖三百五十年祭典大記念会, 1914)今川義元の西上

(永禄三年)五月義元大挙して西上し

とある。簡潔な記事なので目的地が書いてないが、上洛戦というのが定説だったので、西上=京都を目指すで問題ないだろう。


・『岩倉公實記. 上卷』香川敬三 總閲[他] ([皇后宮職], 1906)武田伊賀等西上ノ事
武田は武田でも水戸藩武田耕雲斎のこと。

ここで武田耕雲斎を首領に、筑波勢の田丸稲之衛門と藤田小四郎を副将とし、上洛し禁裏御守衛総督一橋慶喜を通じて朝廷へ尊皇攘夷の志を訴えることを決した[15]。

天狗党の乱 - Wikipedia


・岩波講座日本歴史. 第4 国史研究会 編 (岩波書店, 1934)
第二 信玄の西上計畫 ​
第三 信玄の西上 ​
信玄が天下取りを目的とする上洛のために西に進むという意味で使っていると思われる。


・英雄の奇蹟的行動 物集高量 著 (広文庫刊行会, 1922) 武田信玄西上の計画二 信玄の出動

旗を京師に樹てんと欲しぬ

岡崎市史. 別巻中巻
第貳節 武田信玄の西上
第壹節 家康の西上 本能寺の變
ここでの信玄の「西上」は、単に西を攻めるという意味かもしれないが、京都に行くという意味ではないとも言い切れない。不明。
「家康の西上」とは天正10年の話で、家康が上洛したのは良く知られているところだけれど、

なほ此度の家康の西上とその饗応について、

とあり、これは安土城での饗応のことを指すと考えられ、すなわち岡崎市史の筆者の言う「西上」は、京都に行くことではなくて「東方から日本の中心部に行く」という意味で使っているのかもしれない。なお安土は近江にあるから畿内ですら無いが、信長の居城なので中心部ということにはなるだろう。


ここにおいて、俺の考える「西上」とは異なる意味(かもしれない)「西上」の用法が見られるわけだが、上に紹介したものは全て京都に行くことを意味しているので、これが一般的に使われていたものなのか、岡崎市史の例外的使用法なのかの判断は留保せざるを得ない。


(つづく)