「西上」とは何か?(その5)

引き続き「国立国会図書館デジタルコレクション」より


・『織田時代史』田中義成 著 (明治書院, 1926) 第二十三章 武田信玄の西上計畫
これも「西上」とは何かがわかりにくい。ただし「第二十五章 武田勝頼の活動」に

信玄卒するに臨み、勝頼に遺命し、宿痾癒えずして西上の計を達せず、然れば仮令一度なりとも京都に攻め上りて、其宿志を果すべきを説けり、

とあるので「信玄の宿志=西上の計=京都に攻め上る」となるのではなかろうか。


・『織田豊臣時代史』牧野信之助 著 (日本文学社, 1938) 第九節 謙信の西上運動とその挫折

信玄にしても、謙信にしても、彌々上洛の決心を固めて大兵を動かさんとするに至ったとは云へ

鎌倉時代史 ([早稲田大學三十七年度史學科第二學年講義録]) / 日下寛 講述 (早稻田大學出版部, 1800) 第三節 東軍の西上
承久の乱。幕軍の目的地はもちろん京都。

・ 『旧幕新撰組結城無二三 : お前達のおぢい様』結城礼一郎 著 (玄文社, 1924) 武田耕雲齋が西上した當時
天狗党の乱。既に書いたように目的地は京都。


・ 『清河八郎大川周明 著 (行地社出版部, 1927) 西上の決行
文久元年11月の上洛。


・『近世日本国民史. 第11 家康時代 上巻 関原役』徳富猪一郎 著 (民友社, 1935) 第十五章 家康の西上

家康は慶長五年九月朔日、彌よ江戸城を発して、西上の途に就いた。

この場合の「西上」の目的地は京都というよりは上方(京阪地方)ということにはなるだろう。この時点では決戦場が関ケ原になるとは決まってない。なお豊臣時代には大坂城に行くことも「上洛」と表現したとか。


・『近世日本国民史. 〔第54〕』徳富猪一郎 著 (民友社, 1939)
第十一章 武田筑波兩勢西上 ​
第十二章 西上途中の武田勢 ​
天狗党の乱。


・『鯨海酔侯』坂崎斌 著 (高知堂, 1902) 第二十五章 藩主参内、侯の海路西上、並に薩藩の関係、侯の入京
「侯」は山内容堂文久3年正月、江戸築地より大鵬丸で大坂へ。淀川を遡り上洛。



まだまだあるけどこのくらいでやめとく。


結局のところ「西上」とは、基本的には東方から京都に行くこと。あるいは少し広くとって日本の(政治的)中心部に行くこと、ということになるだろう。単に京都が「上」だから東から京都方面に向かえば「西上」というわけではなくて、目的地が京都(または畿内・上方・大坂・安土等)の場合が「西上」なのであって、本来はそういう使われ方をしていたはずなのだが、それがいつのまにか「信玄の西上作戦の目的は上洛ではなかった」という言い換えてみれば「信玄の上洛作戦の目的は上洛ではなかった」みたいなわけのわからない表現をする人(学者でさえ)が出てきてしまったということではないだろうか?(信玄自身がこれは西上作戦だと主張してたが実は違うという話ならこういう表現もありだがそういうことではない)


そういうことを言いたいのなら「信玄の遠江侵攻は西上作戦ではなかった」とでも言うべきところではなかろうか?と俺は確信しているのだが、異論があったらコメントしてください。


ただしこれは単なる言葉の使用法の問題であり、何を言いたいのかは文章を読めばわかるではないかということになるかもしれないが、そうではなくもっと重要な問題が生じているケースがあと俺は考えているのである。。


(つづく)