『陰謀の日本中世史』について(その1)

呉座勇一氏の『陰謀の日本中世史』 (角川新書)売れていて、なおかつ評判が良い。

陰謀の日本中世史 (角川新書)

陰謀の日本中世史 (角川新書)

というわけで滅多に本を買わない俺も買った。なぜなら俺は陰謀論に非常に関心が高いから。といってもまだほとんど読んでないんだけど。俺は鎌倉時代室町時代に詳しくない。本能寺の変についてはそれなりに知ってるつもりだが、関ケ原もあまり詳しくない。そもそもどんな陰謀論があるのかも知らない。というわけで個々の話には中々入っていけない。


それでも言いたいことはある。評判が良いものに批判的なことを言うのは、逆張りだとか何だとか言われそうだけれど、かねてから思っていることだから、書いておく。


そもそも「陰謀論」とは何か?呉座氏は「明確な定義はない」としながら、

本書では、「特定の個人ないし組織があらかじめ仕組んだ筋書き通りに歴史が進行したという考え方」と定義しておく。言い換えるなら、「陰謀の発案者は一〇〇%完璧に未来を見過ごすことができる完全無欠の天才(超能力者?)である」という発想が陰謀論の根底にある。

とする。「陰謀論」の明確な定義が無いのは事実だろうから、呉座氏が任意に定義することはとやかくいうことではない。
(ただし「陰謀論の根底にある」ものはそれだろうか?という疑問はある。むしろその陰謀論をつきつめると「陰謀の発案者は一〇〇%完璧に未来を見過ごすことができる完全無欠の天才」となってしまうということに気付かない、あるいは無頓着なことの方が多いということであって、陰謀論の発想の源になっているものは別のものではないかと思う)


そんで、俺の考える「陰謀論」の定義はそれではない。呉座氏の定義する「陰謀論」も含まれるが、それよりも広い。簡単に言えば「隠された真実・歪められた歴史」的なものは全て陰謀論の候補になるということ。


歴史上「陰謀」自体は実際にあっただろう。だが、それが陰謀だったとするには余程の根拠が必要なのではないか?もちろん陰謀があったことを直接に示す確実な史料があれば良いが、多くの場合、性質上そういうものは無い。したがって陰謀の疑いが濃厚だったとしても確実だとは言えない。「陰謀の疑いがある」ということさえ、他の可能性をよくよく考慮して比較検証した上で、疑惑を表明するといった慎重な姿勢が必要なのではないかと思う。


もちろん、これは俺の定義する「陰謀論」ではある。しかしながら、呉座氏の定義する「陰謀論」の具体例においても、それが史料(一次・二次両方)に記されていない、あるいは矛盾する記述がある場合、多くは「〇〇によって都合が悪いので消された・改竄された」と説明されることが多いのではないだろうか?そして、俺からすれば、これこそが呉座氏が定義する「陰謀論」の根底にあるものだと俺は思う。


そしてこれは要するに歴史学研究と切っても切れない「史料批判」から派生したものである。もちろん史料批判をしてはいけないということではない。それは絶対に必要なものだ。だが陰謀論史料批判の暴走からきているということも否定できないことではないだろうか?


そして、ここが重要なことだが、史料批判の暴走が在野の研究者や歴史学者の一部のみで起きていることではなく、歴史研究のど真ん中で起きていることだと俺は常々思っているのだ。すなわち歴史学者が安直に「〇〇のために改竄した」とか言ってることが俺にとっては重大関心事なのだ。


でも、これは俺の重要関心事であって、呉座氏の重要関心事ではないのだろう。それはまあ人それぞれではある。けど、この本にも、そのような「隠された真実・歪められた歴史」的な主張が特に批判もされずに掲載されていたりする。そこが大いに気になるのだ。


(つづく)