『陰謀の日本中世史』について(その3)

『陰謀の日本中世史』第六章「本能寺の変に黒幕はいたか」(P203〜P264)から、「隠された真実・歪められた歴史」的な記述を探してみる。

光秀と関係のあった人々、事件の真相を知る人々は後難を恐れて口をつぐみ、証拠隠滅を図ったものと思われる。
(P204〜P205)

しかし、これらの事件は現在では江戸時代の作り話と考えられている。
(P206)

また桑田は愛宕百韻についても、光秀の元の歌は「時は今 雨が下なる 五月哉」であり、大村が光秀の野心の表れとして「時は今 雨が下しる 五月哉」と改竄したのではないかと推測している。
(P210)

信長が驕り高ぶり自己神格化を図ったがゆえに全知全能の神デウスの怒りを買い非業の死を遂げた、というストーリーをフロイスがでっち上げたのだろう。
(P218)

最初の方だけでもこれだけある。それっぽいのは他にもあるが省略した。これらは俺からすれば「陰謀論候補」に該当するものだが、呉座氏の批判の矛先は「黒幕説」なので、これらの主張に批判的な検証はなされておらず、氏自身が主張しているものもある。、


もちろん、これらが全て陰謀論だと決めつけるものではない。あくまでも「陰謀論候補」だ。これらの主張が他の可能性と比較して十分妥当性があるのなら陰謀論ではない。このへんを検証してみる。


まず

明智光秀織田信長を葬った後、自分に身方するよう諸方に書状を送ったはずだが、これもあまり残っていない。光秀と関係のあった人々、事件の真相を知る人々は後難を恐れて口をつぐみ、証拠隠滅を図ったものと思われる。

この主張によれば「事件の真相を知る人々」が存在したことになる。確かに光秀が諸方に書状を送った可能性はある。ただしそれで送られた方が「事件の真相を知る人々」になるのかは別の話だ。念のために書いておけば、それらが残っていれば事件の真相の手がかりになるかもしれないということはできる。だが、事件の真相を光秀が正直に書状に記したとは限らないので、受け取った人々が「事件の真相を知る人々」と言えるのかといえば、そうなるとは限らない。そもそも残っている書状でも、西尾光教宛書状写しには「父子悪逆天下之妨討果候」としか書いておらず、事件の真相の僅かな手がかりになるかもしれないようなことしか書いてない。


そして、彼らは書状が来たのにも関わらず光秀に(少なくとも積極的には)加担しなかった人々ということになる。加担してたら処罰されてる。光秀から書状が来たのに加担しなかったことは都合の悪いことではなく、むしろ評判を高めることではないだろうか?西尾光教は秀吉に仕えている。証拠隠滅を図る必要は無かったのだ。書状の中に密約があったことが書かれているのなら別だが、それは光秀単独犯行説と齟齬をきたすのではなかろうか?


事前の密約などの後ろめたいことが無くても、不都合だからという理由で証拠隠滅を図ることが絶対に無いとは言い切れない。だが、不都合だから証拠隠滅を図ったということもそれほど確実なことではない。わかるのは書状が「あまり残っていない」ということだけだろう。そもそもそんな書状などはじめから存在しない可能性だってある。毛利輝元に宛てた書状の写しが伝えられているが、輝元は信長の家臣ではなく敵なので、光秀と協力するのは不自然なことではないし、秀吉などの織田家側からみたって、主君の仇にはなるであろうが謀反人とはならないだろう。それは戦国のならいであって証拠隠滅する理由は特にないのではないか。であるなら信長の敵対勢力に送った手紙が多数あるなら他にも残っていても良さそうなものだと思う。


書状が「あまり残っていない」ということだけは言える。だが、それ以上のことを言うには余程の根拠が必要ではないか?もちろん良く言われることだが、新書では文字数の制約があり詳しいことは書けなったということなのかもしれない。だが総合的に考えて「証拠隠滅」だとする根拠は乏しいのではないかと思う。


(追記 4/13)あと本能寺の変での光秀書状が残っているものでも「写」だということの意味も考える必要があるかもしれない。一つは偽文書の可能性だが、そういうことではなくて単にこの手の文書は残りにくいのではないかとも思う。火事などがあった際に優先されるのはその家にとって大切な証文類などだろうと思うから、重要性の低い文書(歴史研究にとってはそうではないけど)は消失するリスクが高かったのではなかろうか?


(つづく)