『陰謀の日本中世史』について(その9)

「黒幕陰謀論」も「隠された真実・歪められた歴史」も根っこは同じ。「陰謀論」の定義は定まっていないから、前者を陰謀論とし後者は陰謀論ではないとするのは自由だが同類であることには違いない。『陰謀の日本中世史』は前者への批判が中心だが、実朝暗殺事件のように黒幕がいることまでは否定してないのもある。そして「隠された真実・歪められた歴史」系の主張は批判するどころか積極的に採用している。買う前からそうじゃないかと思ってたが予想以上だった。ただし呉座氏が特別なのではなく、これは現在の歴史学会に巣食う病理だと思う。


陰謀論」に関しては歴史学者も在野の研究者も五十歩百歩。念のために言っとくけど五十歩と百歩の二つを比較したら大きな差があるので、歴史学者が在野の研究者より格上だけれども、大きな視点でみたら大した違いはないということ。などと言うと怒る人もいるかもしれないのでフォローしとくと、総合的に見れば歴史学者と在野の研究者とでは、その成果において天と地の差がある。あくまで「陰謀論」に関してはということだ。これでも怒る人はいるだろうけど…


「隠された真実・歪められた歴史」的な話になると、優秀な学者のレベルがとたんに低下する。「そんな話は一次史料にはない。それはただの推測にすぎない」などと批判する一次史料を重視する厳格な学者が、その口で二次史料について「この史料は〇〇に都合よく改竄されたものだ」と言うのを実際に何度も見た。都合よく改竄したなどということはどこの史料に載っているのだろうか?それも推測にすぎないではないか。


もちろん史実と異なることが書かれた史料は山ほどある。だからといって安易にそれが書かれた動機を決めつけるべきではない。そう決めつけること自体が歴史の歪曲になる危険もある。また自説に都合の良い史料の検証は甘くして都合の悪い史料には厳しいなんてことも起こりえる、というかそういうのはたくさんあると思う。


なんでこんなことになっているかといえば、既に書いたが、これは史料批判の暴走」であろう。史料を鵜呑みにしてはいけない。疑ってかかるべきだというのは近代歴史学実証主義)の基本中の基本。前近代には荒唐無稽な話が史実とされていた。近代になってからも実証を欠いた歴史が世間に流布して害を及ぼした。それはあってはならないことだという強い信念から、とにかく史料は疑ってかかる。


疑う人は賢くて、鵜呑みにする(決して鵜呑みにしたわけではなく検証した上で正しいと判断してもそう見られる)のは愚かだみたいな風潮が出来てしまった。もちろん史料に書いてあることは全て嘘だということにはならないけれど、疑わしい部分があれば、そこから「隠された真実・歪められた歴史」論が生み出されることになってしまい、それが受け入れられる土壌もある。


もちろん明らかにおかしい主張は学会では採用されず在野の方面でだけ主張される。しかし明らかにおかしいとまでは言えない、ある程度は説得力があるように見える主張を学者がすれば、それが受け入れられているのが現状だろう。ツッコミどころがあるとはいえ学者と論争するのは並大抵のことではない。それが否定されるのは他の学者が否定したときにほぼ限られるだろう。おかしなところだらけの主張だったと後から見れば思わざるを得ない主張がまかり通っていて少しずつ見直される。その一方で新たな「隠された真実・歪められた歴史」論が生まれてくるいたちごっこ。それが現在の歴史研究における最大の問題点の一つだろう。この問題を真剣にとらえて改善すれば、歴史研究は飛躍的に発展するだろうとさえ思う。しかし並大抵のことではない。そもそも問題を自覚すらしていない人が多いのではなかろうか。