福島正則の「西上」(その1)

「西上」とは何か?(目次)

「西上」とは「東方から京都に行く」という意味。信長時代には安土に行くことも「西上」、秀吉時代には大坂に行くことも「西上」だったかもしれないが、基本的にはそういう意味。したがって「武田信玄西上作戦の目的は上洛ではなかった」というような言い方はおかしい。で、ここからは福島正則の「西上」について。正直俺は関ケ原合戦には詳しくないが、この点については非常に気になっている。


近年の関ケ原合戦研究において「小山会議はなかった」という説が勢いを得ている。その有力な根拠の一つがこれ。『武徳編年集成』に載る「(慶長五年)福島正則徳川家康書状(写)」に

早々其元迄、御出陣之旨、御苦労共ニ候、上方雑説申候間、人数之儀者被止、御自身は是迄可有御越、委細黒田甲斐・徳法印可被申候間、不能詳候、恐々謹言
 七月廿四日 家康
  清州(清須ヵ)侍従殿

とあり、家康は福島正則に対し「人数の儀(軍勢の進軍)」を止めて、正則は是(家康がいるところ)まで来るようにと記している。家康がいるところは小山であり、会議ために正則を呼んだのだと解釈できる。


しかし、白峰旬氏は『武徳編年集成』と『福島家系譜』『天正元和年中福島文書』『福嶋氏世系之圖全』との違いに注目した。一つは日付の違いで、『武徳』では「七月廿四日」だが、他では「七月十九日」または「七月九日」になっていること。もう一つは『武徳』では「人数之儀者被」となっているのに対し、他は「人数之儀者被」となっていること。


そこから白峰氏は『武徳編年集成』所収の文書は著者の木村高敦が

7月25日に小山評定がおこなわれて上杉討伐の中止を決定したかのよう にみせるため、その前日付の家康書状で福島正則の進軍中止を命じた、というように内容を改ざんしたもの

と推測した。
フィクションとしての小山評定 : 家康神話創出の一事例
説得力のある推理ではある。


ただし、俺は一つとても気になることがある。それはもちろん「西上」のことだ。白峰氏の推理が正しいとすれば、文書に本来書かれていたのは「人数之儀者被」で、「上」とは「のぼる」であり、すなわち京都(または大坂)に行くということだ。単に西に進むのは「上」ではない(と俺は確信している)。


であれば、家康は7月19日(白峰氏は19日を採用する)時点で福島正則の軍勢を京・大坂に行かせる決定をしていたことになる


いや、俺は関ケ原合戦に詳しくないので、それが不自然なことなのか自然なことなのかよくわからない。ただ言えるのは、白峰氏の論文には単に「西上」としか説明されていないので、この「西上」がどういう意味なのかが不明だということだ。俺は「西上」とは京に行くことだと確信しているけれども、他の人がそうだとは限らない。学者でも「西に進む」という意味で「西上」を使っているらしき事例がある。


この場合の「西上」が何を意味するのかは、かなり重要な問題ではないかと思うのだ。


(つづく)