福島正則の「西上」(その2)

家康が7月19日時点で福島正則の軍勢を京・大坂に行かせる決定をしていたとすれば、「小山会議はなかった」ことの根拠になるかもしれないが、それはそれとして、このこと自体が関ケ原合戦研究における重要なはずだ。だが、これについてはあまり注目されてない。なぜかといえば「西上」とは「西進」のことだと考えているからだろう。


たとえば最近の『陰謀の日本中世史』でも

豊臣系大名の一部を西に向かわせ

状況的には正則は江戸から西上したと見るのが妥当であろう。

西軍が東進した場合、真っ先に清須城を攻撃目標とすると想定される。豊前(今の大分県)に領地を持つ黒田長政が西上するのに、正則が西上しないということは考えにくい。

福島正則が居城清須城にいち早く戻っているのも、三成憎しというより、留守にしている自分の領地が心配だったからだろう。この時点で美濃・近江方面まで進撃する気があったとは思えない。

とあり、「西上」が「東方から京都に行く」という意味だと理解しているようには全く見えない。


そもそも白峰旬氏の論文において「西上」がどういう意味なのか明確になってないことは既に書いた。ただし、

清須城が石田三成織田秀信によって奪取される危険をはらんだ状況下では至急、福島正則が西上して清須城に帰城しなくてはならず一刻も早く急いで行軍したのは当然であろう。

小山評定は歴史的事実なのか(その1)拙論に対する本多隆成氏の御批判に接して
などと書いてあること等を総合的に判断すれば、白峰氏もやはり「西上」を「西進」の意味と捉えていて、具体的な目標は清須であるように見える。ただしそのあたり極めて曖昧だ。だが既に書いたように、「上」とは京都に行くことだと考えて疑いない(と俺は考える)。


なお、福島正則の居城は清須城であるが、目的地が清須である場合、「上」よりも適切な言葉がある。しかも白峰論文にも載っている「(慶長5年)7月29日付大関資増宛浅野幸長書状」

駿州ヨリ上之御人数ハ、何も国々へ御返しニ候、

CiNii 論文 - 小山評定は歴史的事実なのか(その2)拙論に対する本多隆成氏の御批判に接して
「返」(かえす)だ。


(つづく)