福島正則の「西上」(その3)

福島正則宛書状が「人数之儀者被止」ではなく「人数之儀者被上」なのだとしたら、正則の目的地は京・大坂でなければならない。では史実の正則はその後どうなったかといえば、白峰旬氏の論文によれば

福島正則が清須城に到着した日付は不明であるが、8月4日付福島正則宛家康書状(27)で は、家康は福島正則に対して尾張国内の明地における年貢徴収を申し付けているので、8月4日の時点では福島正則は居城である清須城に在城していたと考えられる。その他、諸史料から総合的に考察すると、7月中には、福島正則は清須城に到着したと考えられる(28)。
フィクションとしての小山評定−家康神話創出の一事例−

という(ただしこれはあくまで白峰氏の推論であって確定したものではない)。清須は京・大坂の途中にあるから城に寄るのは当然と言えば当然ではある。しかし7月19日には京・大坂を目指していたはずの福島正則の軍勢が8月になっても清須にいるのはどうしたことか?しかも家康は年貢徴収を申し付けているという。これは一時的に寄ったものとは到底いえない。


すなわち、福島正則の軍勢の目的地は京・大坂から清須に変更されたということが導き出される。「西上」を「西進」と解釈していれば、いずれにせよ西に進んだことに変わりはないということになって、この問題点に気付かない。事実この点に関しては何の言及もなされていない。白峰氏のみでなく、白峰論文について言及されたものでも、ここに関心を寄せる人は見当たらない。すなわち誰も気付いてないものと思われる。しかしこれは重要な問題だ。


なぜ目的地が京・大坂から清須に変更されたのか?実はズバリこれに合致する史料が存在する。しかもこの話かなり有名。

上方江打向可申候、各大坂に妻子在之間、是より早々上方江御上り候得と被仰付候、其時福島左衛門大夫被申候は、私儀治部少輔と一味仕候筋目無御座候、大坂へ妻子治部少輔に渡し人しちにては無御座候、たとへ串に指候共男のひけには罷成間敷候間捨候と申候て、惣領刑部是ゑ召れ候て家康公へ人しちに進候、是より上方へ御先手可仕候、
上方にて御人数兵粮之儀、私太閤様より十万石、御代官所預七年分之米、尾州に納置候間、三十万石程と御用可罷立候、左衛門大夫様々被申候故、細川越中守殿、池田三左衛門殿、浅野紀伊守殿、田中筑後殿、堀尾信濃守殿、其外諸大名家康公御味方可仕と被申候、然共家康公上方え之御出馬跡より御登り可被成との義に井伊兵部殿御名代に御登せ被遊候。
「福島大夫殿御事」『関ヶ原合戦史料集』(藤井治左衛門)

(「(家康は)上方へ打ち向かうつもりだ。各々方は大坂に妻子がいるので、今から早々に上方へ上るように」と仰せになった。その時に福島正則は「自分は石田三成の味方ではありません。大坂の妻子は三成に渡したもので人質ではない。たとえ(人質が)串刺しにされようと、男のひけ?にはなりません。惣領の刑部(正之)をここに連れてきて(家康の)人質にし、今から上方への先陣をつとめます。上方での兵士の食料は、秀吉様からの10万石と代官所預かりの7年分の米が尾張に納め置いてありますので30万石ほど用立てできます」と申し立てたので、細川忠興等の諸大名も家康の味方になると申し出た。けれども家康は後から上方への出陣するとし、井伊直政を名代として上らせた)


これは一般に小山会議でのこととされているけれども、ここには「小山」とは書いてない。ただし前後を見てないのでわからない。なお、上の記事を先入観無しに読めば、これが一日の間の出来事だとも、諸将が集まって会議したとも書いてないことに留意すべきだろう。


とにかく、ここで、家康は諸将に対し「是より早々上方江御上り候得」と発言している。すなわち「人数之儀者被上」と一致している。


そして、「御自身は是迄可有御越」福島正則は家康の所まで向かっているのだがら、そこで、上にあるのと似たような発言を正則がして、それにより目的地が上方から清須に変更されたのだとすれば、ぴったり符合するではないか。


(つづく)