福島正則の「西上」(その5)

「西上」とは「西に進む」という意味ではなく「上方を目的地として進む」という意味。よって福島正則宛書状に「人数之儀者被上」とあるのは「正則の軍勢は上方に向かわせ」という意味。正則軍を上方に向かわせる理由は、三成と対決させるためではなく正則の妻子が大坂にいるから。。家康と面談した正則の発言によって、家康の当初の予定が変更され正則の目的地は清須になった。というのが、ここまでの俺の推理。「上(西上)」という言葉の意味は何かという初歩的な問題が疎かにされたことにより、小山評定ひいては関ケ原合戦前夜についての研究が空回りしているのではないかと俺は思う。


白峰旬氏の論文「フィクションとしての小山評定」に、「小山評定について、近年新しい見解を提示したのは、下村信博氏、高橋明氏、本間宏氏」の要旨が書かれているが、「▼高橋明氏の見解」のところで、

このように、7月25日の小山評定で上洛決定(=上杉攻撃の中止)をしたという従来の 通説的見解を、高橋氏が否定した意義は大きい。

と書いている。「上洛決定(=上杉攻撃の中止)」とあるが、これは「上杉攻撃」か「上洛(この場合の上洛とは「家康及び諸将」が三成たちを討つための上洛という意味だろう)」の二者択一というニュアンスが感じられる。しかし俺の見るところでは「家康」と「諸将」は分けるべきであり、少なくとも「家康単独の上杉攻撃」「家康単独の(三成たちを討つための)上洛」と、諸将の「(人質のいる大坂への)上洛」・「家康についていく」の組み合わせを考えなければならないだろう。


俺の予想するところでは、家康が「内府違いの条々」の内容を知ったのはいつなのかはともかく、早い段階で三成らの行動は家康個人に向けられたものだという認識を持ち、これを「家康vs三成ら」の「私戦」と規定し、家康独自で解決しようとの構想を持っていたところに、「小山評定」の有無はともかく、あったとされる7月25日頃に従軍諸将が家康に味方するという明確な反応を見せるようになり、また上方の情勢も次第に明らかになってきたことにより、方針を転換したのではないかと思う。


他に史料は無いか『関ヶ原合戦史料集』(藤井治左衛門)で探してみる。


『北川遺書記』に『福島太夫殿御事』と類似のことが書いてある。だがこれは「後人の偽作」と考えれれているそうだ。
「北川覚書(キタガワオボエガキ)」の著者が知りたい。「北川遺書記」(キタガワイショキ)」(北川次郎兵... | レファレンス協同データベース

一 小山にて何もへ被仰渡候義ハ、何も妻子以下大坂に召置、奉行方へ取られ候義、無是非仕合候条、何も奉行方を被仕候へ、一戦の上内府様勝利に罷成候ハヽ、至其時ハ奉行方仕候へ共、少も御如在被成間敷と被仰出候処に、何れも被申候は、可致様も無之義候間、先可登候と余多御請被申候と承候、然所福島左衛門太夫・山内対馬守両人被申候ハ、奉行方仕候義不存寄所候、内府様御供仕治部少輔討果可申と深く被申に付て、何も同意の衆出来申と承候

『北川遺書記』では、これが「小山」での出来事だと明記している。また「諸将が奉行方に仕えたとして家康が勝った場合にも少しも如在(手落ち)にはならない」と言い、多くの諸将が「まずは大坂に登る」と承知したところ、福島正則山内一豊が「奉行方には仕えず家康の御供をして石田三成を討つ」と発言したら、諸将も同意したという。前に「この話かなり有名」と書いたけれど、一般に流布しているのは、『福島太夫殿御事』ではなくこの『北川遺書記』の方だろう。『北川遺書記』の話が疑わしいので『福島太夫殿御事』の話までが疑問視されることになったのかもしれない。しかし両者は分けて考えるべきだろう。(なお『北川遺書記』の記述は疑わしいけど「登(のぼる)」を正しい用法で使っていることだけは一応注目したい)


(つづく)