福島正則の「西上」(おまけ)『慶長年中卜斎記』について

白峰旬氏の論文『フィクションとしての小山評定 : 家康神話創出の一事例』では「3.『慶長年中卜斎記』が描く小山評定」と題して『慶長年中卜斎記』について論じている。その後、本多輶成氏がこの前「小山評定の再検討」( 『織豊期研究』14号)を発表し、白峰論文を批判した。本多氏の論文は未見だけれど、白峰氏の「小山評定は歴史的事実なのか(その1)拙論に対する本多隆成氏の御批判に接して」を見ると、『慶長年中卜斎記』の記述が争点の一つになっている。


そこで気になるのは『慶長年中卜斎記』の史料的性格。著者板坂卜斎は家康の侍医で史料的価値が高いとされる。それはそうなんだけれども、俺はこの件で『卜斎記』の福島正則に関する記事を見て不自然に思い、最初から見てみたところ、冒頭に「卜斎記叙」という記事がある。


「卜斎記叙」に何と書いてあるかと言うと、徳川吉宗紀伊藩主だったとき、納戸に『板坂卜斎が覚書』という書物があった。吉宗が将軍になって後、家康の一生について世間に記し伝えるものは多いが実否は確かでない。林大学頭に尋ねても確かなことは知らないという。その他大名や古い家々の旧記を取り寄せて調査した。たとえ軽い書付でも古くて確かなものは調査した。それで紀伊の納戸にあった旧記も取り寄せ、その中に卜斎の覚書もあった。この覚書は古いものなので証拠になるけれども写しなので、卜斎の自筆はあるだろうかと尋ねたところ、幸いにも卜斎の孫娘は小姓の岩本内膳正の養母だという。内膳正は本丸へ御供として江戸にいたので、内膳正に尋ねたところ、養母は卜斎自筆の覚書を所持していたので(吉宗に)差し上げた。(ここから原文。ただし注記は略。適宜太字にした)

依之御小納戸山本八郎右衛門に被仰付、卜斎覚書年月前後の差別なく記候を考改め年月の次第に随てそのことを記、又日ハ忘れ候年月の覚違有之分別引合改め候得迚、御年譜、黒田家覚書、太田和泉守日記、藤堂家覚書、島津家覚書、是等の御書物を写し被成候、其上ひらの御坊主成島道竹と申者学問も有之由、被 仰付、校へ合され候處、実事は違無之候、其内少々不信なる事とも御座候得共、右の御書物ともにて考合、慥ならさるはその分にいたし、初の本は全部壹冊にて候しを上中下三冊に仕立指上られ候へは、上意に叶候哉、外題をは慶長年中板坂卜斎記と可仕よし被仰出(以下略)

これをどう解釈すれば良いのだろうか?特に「日ハ忘れ候年月の覚違有之分別引合改め候得」の部分。


白峰論文『フィクションとしての小山評定 : 家康神話創出の一事例』に

なお、上記の『慶長年中卜斎記』における日付について一次史料で検証すると、上述のように、家康が東下した諸将に対して一斉に西上するように命じたのは7月26日であるから (35)、7月28日に小山評定(上述のように実質的には評定ではないが)があり、そこで諸将の西上が決定した、とするのは誤りであることがわかる。よって、『慶長年中斎記』の小山評定7月28日説は成り立たないことになる

とあり、「小山評定は歴史的事実なのか(その1)拙論に対する本多隆成氏の御批判に接して」によれば、本多輶成氏も

『慶長年中卜斎記』の著者である卜斎は本来ならば(家康付の)医師として(家康に)近侍し ていたのであるから、その記述は信憑性が高いはずであるが、小山評定前後の記述は、日付や 内容に一次史料と相違するところが多く、その信憑性にははなはだ疑問がある。

と指摘している由。しかし「卜斎記叙」には「分別引合改め候得」とあり、また「実事は違無之候」とある。ただし「慥ならさるはその分にいたし」とあるから、「小山評定」の日付が「確かならざること」であるならば、そのままにした可能性はある。だが逆に、日付の覚え違いと判断して「修正」した可能性もあるのではないか(小納戸役の山本八郎右衛門が小山評定は28日で間違いないと認識していたとしたらそうなるかもしれないではないか?)


このあたり、研究者はどう考えているのだろうか?さすがに「卜斎記叙」を読んでないということは無いだろうと思うから、この日付は卜斎が記したままと考えているということだろうか?


※ 俺の「卜斎記叙」の読解が間違っている可能性もある。『卜斎記』はほぼ正確だったので「少々不審」の部分はそのままにして修正しなかったという意味の可能性もある。ただその場合、小山評定の日付は「少々不審」で済む問題だったのかという疑問はある。


※ なお順番がバラバラだった元の覚書を日付順に並べたということは、同じ日の出来事(とみなされたもの)が本来は別々に書かれていたのを、一つの文章にまとめたものだという可能性があるということで、そこも注意しなければならないだろう。


(追記 4/24) 『卜斎記』では7月19日に「上方雑説」が届いてる。それ以降7月の記事は基本的に毎日長文なのだに、23日は「小山に着陣」だけで短文。25日も「六日雨降此節 秀忠公宇都宮に御陣」と短文。なぜここだけ短文なのだろうか?本来ここにあるべき記事が他の日付の記事に紛れ込んでいる可能性があると思う。一般に25日だとされてる小山評定が『卜斎記』では28日にあったことにされてることと、これはリンクしているように思われる。