『付喪神記』と『百鬼夜行絵巻』(その2)

付喪神記』を画像から読み解く。なお『付喪神記』には岐阜の崇福寺所蔵の『非情成仏絵巻』と、国会図書館所蔵の『付喪神繪』の二系統があり、両者の絵は比較すると全く異なる。ここでは国会図書館所蔵の『付喪神繪』について論じる。

※ 崇福寺本についても論じたいのは山々だけど鮮明な画像が入手困難なのと、行列の描写がないので後回し。崇福寺本の方が本来の形だという意見を良く見るけれど筧真理子氏によれば、崇福寺本系統は国会図書館本系統をもとにして作られたと見る方が自然とのこと。⇒『百鬼夜行絵巻』はなにを語る(<特集>絵画とことば)(田中貴子


画像は「国立国会図書館デジタルコレクション」より。


画像(1)


画像(2)


画像(1)は「煤払」で捨てられた器物。画像(2)も同じ。ただし(2)は松の木の周りに捨てられてるのに対し(1)は別の木。また器物の種類も違う。そこから考えるに(1)はこの絵巻が掻かれた時代における「現在」。(2)は「康保の頃」に捨てられたこの物語の主人公達と解釈できる。と言いたいところだが(1)で捨てられた器物の中に妖変したと思われるものがある(スコップみたいな形のが一つ目小僧になってるとか)。謎。


(1)の器物の数は14個。(2)の器物の数は16個。左端の器物も加えれば17個だが(3)にかかると思われる。


(2)の画像は、「康保の頃」に捨てられた器物達が「一所に寄り合ひて評定」してる場面だと思われる。「数珠の入道一連」「手棒の箸太郎」「古文先生」の姿が確認できる。既にほとんどの器物に顔があったり手足が生えていたりする。つまり彼らは節分の夜に妖物となる前から既に妖怪化していたといえる。


画像(3)

(3)は一連が箸太郎に暴力を振るわれる場面。もう一個器物があるが、これが(2)に入るのか(3)に入るのか微妙。(3)に入るのなら一連の「弟子共」の一つなのかもしれないが、(2)にこれと同じ器物が無いように思われるので(2)に属するのかもしれない。すぐ右に同じではないがそっくりの器物がある。微妙。



画像(4)

節分の夜に妖物となった器物たち。全部で15体(馬を含む)

或は男女老少の姿を現はし、或は魑魅悪鬼の相を変じ、或は狐狼野干の形をあらはす。色々様々の有様、恐ろしとも中々申すずかりなり。

(画像が切れてるので全体を見るには「国立国会図書館デジタルコレクション」にアクセス)


器物の形を失ったのもあるけれど、まだ器物の形態を有しているものもいる。なお頭部が扇子の女の妖怪は(2)の器物の中には見えない。どっから湧いて出たのか?その他の妖怪も(2)の器物との関係が明確ではない。一つ目で杖をついてる妖怪が(1)の器物と類似することは既に書いた。


画像(5)

妖物共、肉の城を築き、血の池をたゝへ、舞、酒宴、遊戯、歓楽しつゝ、人間の楽しみをさみし、天上の快楽、あら羨ましからずやなどとぞ申し合ひける。

(画像が切れてるので全体を見るには「国立国会図書館デジタルコレクション」にアクセス)全部で13体。

彼らはもはや元の器物の形態を有していない
ただし、扇子を持った女の妖怪は元は頭部が扇子だった女の妖怪だろう。他の妖怪が手に持っている器物も元の器物との関係か?右にいる赤い肌の魍魎は箸を持ってるので「手棒の箸太郎」か?


この段階で彼らは見た目では元は器物だったとは全く想像できない姿になっている


(つづく)



※ あと画像(5)には妖怪には全く見えない「机」があるが、もしかしたらこれも妖怪の可能性がある。四つ足なので前の場面の馬が変化したものかもしれない。これを入れれば全部で14体。
(馬)


(追記5/2)
赤鬼は箸を持ってるので「手棒の箸太郎」かと推理した。ところが『日本文学大系』第19巻「お伽草子」では「箸太郎」になってるけど、絵巻の詞書はこうなっている。

室町時代小説集』(平出鏗二郎 編校訂 精華書院)で「箸(荒ヵ)太郎」となっており「荒太郎」と読むのだろう。なお『日本文学大系』で「古道具」とあるのは『室町時代小説集』では「ふる具足」とあり、絵巻でも「ふる具足」となってる等の違いがある。底本の違いか?