陰謀論批判批判

呉座勇一氏が陰謀論批判をしている。
「この国に陰謀論が蔓延する理由」歴史学者・呉座勇一に訊く(現代ビジネス編集部) | 現代ビジネス | 講談社(1/3)
陰謀論を批判するのは良いのだけど、この批判は妥当なのだろうか?

なにか大きな事件が起こると、すぐに陰謀論、ファクトに基づかない「憶測」が氾濫する、という流れが定着しています。昔は無視できる程度の影響力にすぎませんでしたが、現在はリツイートやシェアによって急速に拡散し、「陰謀論」がなんだか説得力のあるものとして受け入れられてしまう。これは大問題です。

まず確認したいのは、ここで言う「陰謀論」は日本史に関する陰謀論のことではなくて、政治や事件・事故等に関する陰謀論も含まれているということ。確かにインターネットの普及により陰謀論は増えた。というか大きな事件どころか、そこそこニュースで取り上げられるような事象には必ず陰謀論が伴うと言って良いだろう。だがこの手の陰謀論の原因が

そもそも、なぜ人は「陰謀論」になびきやすいのでしょうか。それは、人が「一般には知られていない見方や、メディアでは語られていない裏情報」を知ることに優越感を覚えてしまうからです。

というのが原因かといえば甚だ疑問。これらの粗製乱造の陰謀論は「自らが擁護したいものを擁護し、叩きたいものを叩く」のが目的というのが大半だと思われ。質の悪い陰謀論など作ろうと思えば簡単に作ることが可能で、作れない素材など一つも無いといっても言い過ぎではない。単に自分の政治的立ち位置や趣味嗜好等にとって不利なものは有利にし、自分と異なる相手にとって有利なものは不利にしようとするのが動機であろう。よって自分と異なる立ち位置の相手から発信される陰謀論については否定する。敵の陰謀論を否定する論理は自分の陰謀論にも適用されるものだが無視される。そういう種類の「陰謀論」である。陰謀論というよりは情報戦(心理戦)と呼ぶべき代物であろう。国家規模で北朝鮮がやっているのと類似したものだ。これを止めさせるには陰謀論の中身を批判しても大した効果は期待できず、効果があるとすれば情報戦が無意味な行為であり却って自らを不利にする愚行であることを思い知らせることだろう。ただし現実にはそれなりの成果があると思われ、たとえ百人・千人に1人だけが信じる程度のものであってもコストパフォーマンス的には成功であろうことスパムメール等と同じ。相手にストレスを感じさせることだけでも成功になるかもしれない。止めさせることは困難だと思う。


この手の「情報戦のための粗製乱造の陰謀論」ではない陰謀論についてはどうか?ネットで情報を簡単に見ることのできる時代であるから目にする機会は増えたかもしれない。けれど陰謀論が増えたかといえば、そんなものは昔からあるし近年になって顕著に増えたという実感は俺には無い。日本史陰謀論にしても同じ。現代史では増えたかもしれないが、それは上に記した情報戦のための陰謀論に属するのが多いのだと思う。

陰謀論のやっかいなところは、否定されることがマイナスにならないことです。いくら専門家が論破しても、「彼らは真実を隠蔽している」「資料が改ざん・破棄された」と言い逃れすることができます。

「論破」とは「議論をして相手の説を言い負かすこと(大辞林)」であれば、論破してないじゃないかと思う。そして「彼らは真実を隠蔽している」「資料が改ざん・破棄された」は学者も使用する理屈である。史料批判が悪いというわけではないが、歴史学陰謀論紙一重なのだ、というか一線を越えているものは多数あるだろうと思ってる。呉座氏にしてからがフロイスのでっちあげ説を唱えているのだ。ここが非常にやっかいな問題なのだ。


他にも言いたいことがあるけど疲れたのでおしまい。歴史学者が個々の陰謀論の矛盾点等を指摘するのは結構なことだと思うけど、それ以上のことを言うことに関しては呉座氏には慎重さが足りないと思う。