陰謀論批判批判4

繰り返すが俺は明智氏の説を支持しない。正しい可能性は非常に低いと思う。数値にするのは困難だが仮に正しい確率は1万分の1(0.01%)だとしよう。この説が正しいということはおよそ有り得ないということだ。


けれど、有り得ないというなら呉座勇一氏のフロイスでっち上げ説は、その明智氏説よりもさらに何十何千倍も有り得ない
陰謀の日本中世史』について(その6)ルイス・フロイスについて

 信長が驕り高ぶり自己神格化を図ったがゆえに全知全能の神デウスの怒りを買い非業の死を遂げた、というストーリーをフロイスがでっち上げたのだろう。
(『陰謀の日本中世史』P218)

そもそも正確に言えば、「信長が自己神格化を図ったがゆえに」ではない

信長ははなはだ傲慢になり、世界の創造主で救世主であるデウスにのみ帰すべきことを己れの手柄にしようとしたため、我らの主なるデウスは人々のこのような参集を眺めて得た満足が長く続くことを許し給わなかった。(『十六・七世紀イエズス会日本報告集』)

である。「信長の神格化」とは何かというのは結構難しい問題だが、少なくとも言えるのは信長のやったことがフロイスにはデウスにのみ帰すべきことを己れの手柄にしようとした」ように見えたということだ。


で、これがでっち上げだと呉座氏は言う。これをでっち上げるだけならば、そういうことはあり得るかもしれない。しかし問題はその後だ。そのためにデウスが信長を滅ぼしたとフロイスは言ってるわけだ。そこから導きだされるのは
信長がやってもいないことをフロイスがでっち上げ、当然やっていないのだから神が罰するはずもないのに、神が罰したことにした。すなわち神の名前を利用した
ということになるではないか。神を人間の都合で利用しても良いものだろうか?イエズス会の宣教師がそんなことをするだろうか?黙ってれば済むなんてことはない。神は何でもお見通しだ。


仏教には方便というものがある。「人を真実の教えに導くため、仮にとる便宜的な手段(デジタル大辞泉)」。日本人には馴染み深いものだろうけれども、それは日本に仏教が浸透しているからだ。もちろんキリスト教社会にも無いわけではないだろうが、そして現代では目的が正しければ神様も許してくれるみたいな考えを持ってる人が少なからずいるかもしれない。しかしフロイスは16世紀の人間で、しかもイエズス会の宣教師だ。およそ有り得ないことだと俺は思う。有り得るとすれば「フロイスは実は神を信じていなかった」とならざるを得ないのではないか?可能性はゼロではない。ゼロではないが、そんなことを碌な根拠も無く主張したらかなりきつく批判されるだろう。俺の考えでは明智氏説の有り得ない度を遥かに凌駕する有り得なさだ。


正直、呉座氏は人のこととやかく言える立場か?と思う。ただ、そういうことを俺がやっている可能性だってある。というか多分やってるだろう。これがいわゆるニセ科学批判だとそういうことは滅多にない。批判対象となるのはかなり明白に科学の基本原理に反したものだからだ。批判している人が同じことをやらかしているということはまずない。しかし歴史の場合は自分が気付かないでやらかしていて他人を批判することは十分起りえる。他人の説の問題点を指摘して、自分もまた他人から問題点を指摘されるというのは問題ないだろう。でも包括的に陰謀論を叩いておいて、自己もそれと似たことやってるというのはかなりいただけないのではないか?