アゴラの呉座氏の井沢元彦批判は適切か?

久しぶりに書く。

 

アゴラの呉座勇一氏の記事

agora-web.jp『日本国紀』については読んでないし面倒くさいからスルー。井沢元彦氏の主張に対する、呉座氏の批判は適切なのかという話。結論から言えば俺は適切ではないと考える。 

史料が出てきたら見解を訂正するのは当たり前である。 

史料がないから確たることは言えない場合、「わからない」とはっきり認めることが歴史学者の「勇気」である。

呉座氏の主張するところは、それ単体で見ればもっともなことを述べている。しかしながら、両者の主張は噛み合っておらず、井沢氏の主張に対する適切な批判だとは思えないのだ。最初に断っておくが、俺は井沢氏の主張が正しいとは全く思っていない。だからといって呉座氏の批判が適切かは別問題である。

 

井沢氏の主張は以下の通り。

山本勘助と真田幸村。時代劇のスターは歴史学では厄介者? | WEB歴史街道

 なぜ歴史学界は勘助の存在を否定したのでしょうか? 理由は簡単で「同時代の史料に勘助が登場しない」というものでした。いかに状況証拠で勘助が存在したと推論できても、証拠が出ない限り絶対ダメだというのが歴史学界の頭の固さです。

ところが証拠が出ました。皮肉なことに『天と地と』がNHK大河ドラマになって放映された時に、それを見ていた視聴者が自分の家に先祖から伝わっている文書が、信玄の書いたものだと気がつきました。テレビ画面に信玄の花押、つまりサインが大写しになったからです。その文書になんと山本菅助(勘助)の名前が書かれていたのです。文書はもちろん本物で、これ以降、歴史学界は手のひらを返したように「勘助は実在した可能性が高い」といい出しました。

証拠(史料)があれば認めるが、証拠がなければ絶対に認めない。こういうのを実証主義といいます。人の運命を左右する裁判なら、それでも結構ですが、歴史については史料がないものもあります。そこは推理推論で埋めるしかないでしょう。そしてその推理推論は妥当ならば仮説として、この場合なら「山本勘助は実在した可能性が高い」と認めるのが学問の常道であるはずですが、日本歴史学界はこの常道を外しているということです。

 

まず、前提として山本勘助の実在とは何か?」という問題。これは聖徳太子非実在説(俺は同意しないけど)における「厩戸という王族は実在したが聖徳太子は実在しなかった」という説の「実在」と同様、「A、山本勘助という名前の人物」が実在したか?という問題と「B.『甲陽軍鑑』に登場する山本勘助」という有能な人物が実在したか?という問題の二つの「実在」の問題がある。これを押さえておかなければならない。

 

 で、明治に田中義成が実在を否定したのは「B.『甲陽軍鑑』に登場する山本勘助」。そして「A、山本勘助という名前の人物」についてはむしろ実在を肯定しているのだ。それも「否定しない」という消極的なものというよりは「積極的な肯定」といって良いものだろう。後に「山本菅助」の実在に関する史料が発見されるが、当時はそんなものはなかった。田中義成が何を有力な根拠にしたかといえば江戸時代に書かれた『武功雑記』である。つまり田中義成は井沢氏の言うところの「同時代の史料に勘助が登場しない」という状態にもかかわらず「A、山本勘助という名前の人物」の存在を肯定しているのである。そして実はこのことを井沢元彦氏自身が知っているのである。『学校では教えてくれない日本史の授業 謎の真相』 (PHP文庫)に

この論文では勘助を軽輩の士としてはいますが、その実在をまでを否定してはいません。

とちゃんと書いている。 ここまでをまとめると、井沢元彦氏は、田中義成博士が「同時代の史料に勘助が登場しない」にもかかわらず「A、山本勘助という名前の人物」が実在したことを肯定していることを知っているが、歴史学界が「山本勘助」の実在を認めないのは「同時代の史料に勘助が登場しない」からだと主張しているということになる。この時点で既に相当トリッキーなのだ。

 

そして次に「ところが証拠が出ました」ということになるわけだが、これは何の証拠だということだろうか?歴史学界が「勘助は実在した可能性が高い」と認めたというのは誰がどんな文脈で言ったのかは不明だが、市河家文書により「A、山本勘助という名前の人物」が実在した可能性が高くなったのは確実だが、『甲陽軍鑑』の山本勘助の活躍が証明されたということではない。信玄の使者を勤めているので田中博士が考えたような一兵卒というわけではなかったとは言えるだろうけれど。

 

で、もう一回まとめると、「A、山本勘助という名前の人物」については「同時代の史料に勘助が登場しない」時点で、実在を肯定的にみる学者は存在したし、同時代史料が見つかったことで、実在する可能性がさらに確実なものになったが、「B.『甲陽軍鑑』に登場する山本勘助」に関しては、実在の可能性が多少高まったけれども「証拠が出ました」という程の決定的な証拠ではないということになるでしょう。井沢氏は意図的か否かは不明だけれども、「実在」という言葉の罠にはまってはいけない。

 

なお、井沢氏は田中博士は「A、山本勘助という名前の人物」の実在を否定してないことを知っているが、一方「歴史街道」の記事には書いてないけれども奥野高廣氏は否定したと考えている模様。「歴史学界は勘助の存在を否定した」とはそのことを指しているのではないかと考えられる。ところが『人物叢書武田信玄』には

勘助については弁護説もあるが、伝説の人物とみるべきである。

と書いてあるのみである。これだけでは田中説を受け継いだだけのものか、それとも田中説をも否定して「A、山本勘助という名前の人物」も実在しないとしているのか不明ではないだろうか?ただしこれを「A、山本勘助という名前の人物」の実在否定と解釈している人は井沢氏のみでは無い。 

 

 

さらにもう一つ井沢元彦氏の記事には、意識的か否かは知らないが重大なトリックがある。それは

 いかに状況証拠で勘助が存在したと推論できても、証拠が出ない限り絶対ダメだというのが歴史学界の頭の固さです。

 「B.『甲陽軍鑑』に登場する山本勘助」については、そもそも「状況証拠で勘助が存在したと推論できても」などと言えるほどの状況証拠があるのだろうか?状況証拠があっても認めないではなくて、状況証拠すら乏しいのが実態ではないだろうか?

 

これに関して、さらに言えば、田中義成博士は「B.『甲陽軍鑑』に登場する山本勘助」を否定しているのだ。つまり「確実に実在するとはいえない」という消極的なものではなくて積極的な否定である。なぜそんなことをしたのかといえば、勘助が実在しないという確かな証拠が無くても状況証拠で勘助が存在しないと推論したからではないだろうか?

 

 

以上を踏まえて呉座氏の井沢批判。

井沢氏は、歴史学界が「手のひらを返した」ことを卑怯なことのように言うが、史料が出てきたら見解を訂正するのは当たり前である。新史料によって自説が否定されたのに、屁理屈をこねて自説に固執する方がよほど恥ずかしい。

歴史学界が新史料が発見されて手のひらを返すのは卑怯ではないかもしれないけれども、そもそも歴史学界が「手のひらを返した」と言うのは事実なのだろうか?という問題がある。市川家文書発見前に「A、山本勘助という名前の人物」を歴史学界が総じて否定していたわけではないし、発見後に手のひら返しで「B.『甲陽軍鑑』に登場する山本勘助」を認めたわけでもないでしょう。

 

 

また

以下のインタビュー記事でも答えたが、史料がないから確たることは言えない場合、「わからない」とはっきり認めることが歴史学者の「勇気」である。作家は個人だが、学者は学界の一員である。現時点で答えが出なくても、将来史料が出てきて答えが出るかもしれない。次代の研究者に後を託すのもひとつの見識と言える。

 

史料に書いていないことを想像で埋めるのは歴史小説には有用だが、歴史的事実を解明する上では有害である。仮に作家の想像が、後に史料で裏付けられたとしても、それはその作家の手柄ではなく、ただのまぐれ当たりである。当たった時だけ「ほれ見たことか!」と喧伝する、たちの悪い占い師や予言者と何ら異なるところがない。

 

なんてことも、その主張自体はもっともらしいけれども、これが井沢氏に主張に対する批判になっているかといえば、なってないと思うのであるそもそも根本的な井沢氏の誤りは、状況証拠で『甲陽軍鑑』に登場する山本勘助が存在したと推論できると考えていることだ。井沢氏は推論できるのにも関わらず同時代史料が無いという理由で歴史学界が勘助の実在を否定したのだと考えているのだ。

 

しかし市川家文書が発見される前の状態は、山本勘助が実在したと推論できるほとの状況証拠など無かったのだ。むしろ無いにもかかわらず『武功雑記』という後世に書かれたものを根拠に「A、山本勘助という名前の人物」の実在が肯定されてさえいたのである。そして市川家文書が発見されたからといって、それが「B.『甲陽軍鑑』に登場する山本勘助」が実在することの状況証拠になるかといえば、そういうわけでもないのである。

 

「史料に書いていないことを想像で埋めるのは歴史小説には有用だが」というけれど、山本勘助は『甲陽軍鑑』という史料に書いてあることである。書いてあるけれど信用できない史料と考えられたから認められなかったのである。一次史料は重要だし、近年はさらに一次史料を重視するけれども、一次史料が無ければ必ず否定するなんてことは少なくとも以前は無かったとことであろう。だからこそ近年は一次史料のみの検証によって通説が覆るという例がみられるのでしょう。

 

 

※ なお、山本勘助実在論は「真下家所蔵文書」および「沼津山本家文書」の発見で大きく動くことになる。