范可(斎藤義龍)について(その1)

 斎藤義龍が父の斎藤道三を討った長良川の戦い。 『信長公記』(新人物往来社)より 

 合戦に打ち勝ちて、頸実検の所へ、道三が頸持ち来たる。此の時、身より出だせる罪なりと、得道をこそしたりけり。是れより後、新九郎はんかと名乗る。古事(こじ)あり。昔、唐に、はんかと云ふ者、親の頸を切る。夫者(かのもの)、父の頸を切りて孝となるなり。今の新九郎義龍は、不孝、重罪恥辱となるなり。

 

〇 [弘治2年4月(1556年4月)20日 ]合戦に勝って首実検で父の道三の首が持ち込まれた。この時、義龍はわが身より出た罪だとして得度(出家)した。これより後「新九郎はんか」と名乗ることになった。

 

ここまでは問題ないだろう。「はんか」は「范可」と書く。『信長公記』によれば、父を殺した罪により出家して「范可」と号したのだから、これは法名ということになる。ただし史実では前年の弘治元年12月に「范可」と署名した文書がある。なおウィキペディアには『美岐阜市史中世 古代・中世』を出典として

『美江寺文書』によれば弘治元年(1555年)12月、「斎藤范可」名で同寺に禁制を出している。

とあるが、実際の『美岐阜市史中世 古代・中世』には

翌弘治元年一二月には、 范可と署名した禁制を美江寺に与えている」

とあり、「斎藤范可」ではなく「范可」である。 なお年号不明ながら12月11日付桑原右近衛門宛文書に「新九郎范可」の署名あり。またこの4月20日付桑原甚三宛文書に「范可」の署名あり。 よって、「范可」を名乗ったのは父を殺すより前のことではある。

 

 しかしながら、『信長公記』においては父親殺しの後に名乗ったことになっているからには、それを前提に解釈しなければならない。なぜそんなことをしなければならないかといえば、なぜ「はんか」という名乗りにしたのかという問題に関わるからである。

古事(こじ)あり。昔、唐に、はんかと云ふ者、親の頸を切る。夫者(かのもの)、父の頸を切りて孝となるなり。今の新九郎義龍は、不孝、重罪恥辱となるなり。

俺の解釈を先に書く。

 

「唐」とあるのは「唐代」とは限らず「唐土」という土地を指してると俺は思う。とにかく昔「はんか」という人物がいた。彼はどういう理由かは不明だが親の首を切った(殺した)。儒教で親殺しは大罪である。ところが「はんか」の場合は親を殺したにも関わらず「孝(親によく仕えること)」をなしたのだという。この故事の出典は現在不明だという。よって具体的にはどんな話なのか全く不明である。しかしながらそれがどんな話であれ(そもそもそんな故事自体が存在しないのだとしても)「はんか」がなしたことは儒教の徳目である「孝」に沿ったものだという認識があることだけは確かであろう。

 

それに対して龍興のなしたことは「孝」に反したものであることは明らかである。この道徳の元では現代的な「正当防衛」など正当では全くない。親が死ねといえば死ななければならない。子は親に絶対服従しなければならないのだから。義龍のなしたことはまさに「不孝、重罪恥辱」であり、どう言い訳しようと覆しようがない(もしかしたら道三と義龍が実の親子ではないという説はそれがために作られた可能性があるかもしれない)

 

で、ここに一つの大きな問題がある。義龍の「范可(はんか)」がこの唐の故事にちなんだものだという説があるのだ。

 

俺の解釈だとそれはありえない。唐の「はんか」にちなんだとするなら、義龍は父の道三を殺したのは親孝行だと主張していることになる。しかし、それはあまりにも無理がある。誰もそれに納得しないだろうし、義龍自身もそれで人を納得させることが可能だと考えるとは到底思えない。

 

また史実では范可と名乗ったのは、父を殺すよりも前のことである。「はんか」は父の首を切った人物で、それにちなんだのなら、その時点で父を殺すと決意していたことになる。それだけならまだ可能性があるが、既に説明したように、単に父を殺すというだけではなく、それを親孝行だと考えていたということになるが、まずあり得ないことだろう。

 

さらに『信長公記』は「はんか」と表記している。なぜ漢字で書かなかったかといえば、唐の「はんか」と義龍の「はんか(范可)」の文字が異なるからではないだろうか?「はんか」という音が同じだから仮名で「はんか」と書いたということだと俺は思う。

 

そして『信長公記』では、義龍の「はんか」は法号である。法号に唐の「はんか」という人物の名を使うなどということがあり得ようか?そんな例があるなら教えてほしいものだが、おそらく無いであろう。なお唐の「はんか」が法号ということはおよそ有り得ないのではないか?親殺し以前に殺生は仏教の戒律に反する。日本じゃその点が守られてなくても違和感なかったりするけど。

 

以上の理由で、俺は信長公記』は、義龍が唐の「はんか」にちなんで「はんか」と名乗ったなどとは書いてないと解釈するし、史実としても義龍が唐の「はんか」にちなんで「はんか」と名乗ったということはおよそ有り得ないと考える。というか、ちなんだという考えはバカバカしいとさえ思う。

 

ところが、調べていくと、ちなんだ説というのは昔からあり、さらに今もこれを採用している歴史学者がいることがわかって愕然としているのであった。

 

(つづく)

アゴラの呉座氏の井沢元彦批判は適切か?(追記)

gryphonさんが紹介してくださった。最初誰かと思ったんだけど「見えない道場本舗」さんやね。

m-dojo.hatenadiary.com

さて、上の記事を読んで、井沢元彦氏の言う「状況証拠」なるものが見えてきた。

山本勘助もかつては実在しなかったとされていた。明治時代の東京帝国大学教授で、歴史学会の大御所田中義成は江戸時代の大名が「山本勘助は信玄の側近ではない。その家臣の山県昌景の身分の低い家来に過ぎなかった。ところが勘助の息子が僧侶で父親の活躍を大げさに書いたのが『甲陽軍鑑』だ」という説を丸呑みにして「偽書説」のさきがけとなった。もう、ずっと昔に死んでしまった人だが、私は初めてこの説を読んだ時「東大教授かなんだか知らないが、本当に常識のない人だな」と思ったものである。お分かりだろうか。息子が父親を顕彰するために書いたのなら、「敵将に父親の勘助が作戦を見破られ死んだ」と書くはずがないし、百歩譲ってそれを認めたとしても「勘助は責任を感じ立派な最期を遂げた」と かくだろう。しかしそんな記述は「甲陽軍鑑」には全くないのである。

 なるほど、これを鵜呑みにすればもっともな「状況証拠」だ。ただし田中義成が主張したのは、『軍鑑』の作者は小幡景憲で、勘助の息子の僧侶が書いた覚書を小幡景憲が取り入れたということ。したがって勘助の息子の意向が完全に反映されてるとは限らないとはいえる。

 

とはいえ小幡景憲甲州流軍学の祖。勘助にとって不都合なことを書くのかという疑問はもっともなことだ。ただし信玄の失敗を勘助に押し付けたと解釈できないこともないのではないか?

 

この「状況証拠」をもって、田中説が間違ってると言い切ることはできないと思うけれど検討するに値することではある。そういう意味では井沢氏にしては鋭い指摘だと思う。

 

ところで「逆説の日本史特別番外編 甲陽軍鑑偽書説の崩壊について」にとっても気になる部分がある。

ところが現在はその小和田名誉教授も、同じく日本中世史の権威である黒田日出男東京大学名誉教授も 「甲陽軍鑑」を史料として高く評価し「偽作の疑いをかけた人はナンセンス。生きた戦国時代の叙述」であるとまで言い切っているのだ。

   確認したら本当に黒田日出男氏が「歴史秘話 ヒストリア」でガチでそう発言していた。

「偽作の疑いをかけた人はナンセンス。生きた戦国時代の叙述」

「かけた」と過去形で言ってるので、現在の研究状況で偽作説を支持してる人のことではない。過去に唱えた人をナンセンスだと批判しているのだ。(文脈的に考えて)新しい史料が発見されてなんて話でもない。とても驚いた。

 

こうなると学者と作家の間の問題ではなくて、学者と学者の間の問題でしょう。

 

ちなみに同番組で小和田哲男氏は「歴史家は明治以来 あれは偽書だという言われ方をしていたので まともに甲陽軍鑑とつきあうというか 甲陽軍鑑の中身について 事細かに研究する姿勢が無かった」と発言している。

 

 

まあだからといって井沢氏の「証拠がなければ絶対に認めない」とか「手のひらを返した」とかいった批判は、それは(事実として)違うだろと言うしかないし、それに対する呉座氏の批判もまた適切なものではないというしかない。

 

 

どんどんこんがらがっていくが、とにかく、これは学者と作家の問題なんてものではないのだ。

 

 

※ ちなみに俺は現在の状況においてもなお『甲陽軍鑑』はやっぱ小幡景憲が大部分を書いたんじゃないの?と疑ってたりする。