2016-02-01から1ヶ月間の記事一覧

惟任日向

七月三日、信長御官位を進められ候への趣、勅諚御座候と雖も、御斟酌にて御請けこれなし。 併しながら、内々御心持候ふや、御家老の御衆、友閑は宮内卿法印、夕庵は二位法印、明智十兵衛は惟任日向になされ、簗田左衛門太郎は別喜右近に仰せ付けられ、丹羽五…

信長の岐阜改名について(その3)

やっと『政秀寺古記』の記事の詳細がわかった。ブログ主の「事代るか」さんには大感謝ですわ。 ⇒岐阜の由来|★織田信長の夢★ 鳴かぬなら 鳴ける世つくろう ほととぎす 『安土創業録』とほぼ同内容。 ただし「井の口」の名が悪いと信長に言ったのが平手政秀だ…

信長の岐阜改名について(その2)

沢彦が「岐阜」「岐陽」「岐山」の三案を示したというのは後世の史料に載るものだから、確かな史実だとは言い切れない。一方、以前からあったとしてこれを否定する人もいる。でも、二つの話は矛盾するというわけではない。確かに信長以前から「岐阜」「岐陽…

信長の岐阜改名について

既に何度も書いてるけれど『政秀寺古記』によれば、 稲葉山城へ入場した信長は、「天下布武」の印文を選定した禅僧沢彦(*注)に「井ノ口は城の名前が悪い」と別の名称を選ばせました。【政秀寺古記】によると、沢彦は、「岐阜」・「岐陽(ぎよう)」・「岐山(ぎ…

素人の歴史研究について(その5)

しつこいようだけれどこれは俺のアイデンティティに関わることなのだから、しつこくなる。 それは「素人にだって言えることはある」ってことだ。 そりゃ論文を精読してなければ言えないこともある。でもある程度の情報が揃っていれば言えることだってある。 …

素人の歴史研究について(その4)

ツイッター上で俺の ⇒一条兼定と一条内政の没年 - 国家鮟鱇 という記事が批判された。批判は大いに結構なのだが、一体何を批判しているのか理解できないので困る。 まず最初のツイートからして俺が言っていることを誤解していると思われる。某ブログにて、一…

素人の歴史研究について(その3)

何度でも繰り返すが俺は歴史研究の素人だ。歴史研究の専門家は、それでご飯を食べているのであり、歴史だけに関心を持っているのかもしれないけれども、俺の興味の対象は歴史研究だけではない。このブログのタグに「歴史と伝説」としてあるように、歴史だけ…

素人の歴史研究について(その2)

ウィキペディアについて。よく目にするのが学生が卒論でウィキペディアの記事をまるまるコピペしたとか、参考文献としてウィキペディアを載せたとかいう話。もちろんそんなことがよろしいことではないことは理解している。 しかしウィキペディアに利用価値が…

素人の歴史研究について(その1)

わかってるとは思うけれど俺は専門家ではない。また専門教育を受けたわけでもない。単なる歴史好き。歴史に関する書籍やネット記事を見ていると、疑問にぶち当たることがある。それは一体どういうことなんだろう?とあれこれ考察するのが好き。 たとえば織田…

穴山梅雪の死について(その2)

前の記事でルイス・フロイスの11月5日付報告書に、 三河の国主は多数の兵と、賄賂とするための黄金を持っていたので何とか(街道を)通行し折よく避難した。穴山殿はやや出遅れたようであり、兵も少なかったため、途中で略奪に逢い、財物のいっさいを奪われ…

穴山梅雪の死について

『家忠日記』によれば 四日 庚寅 信長(御父子)之儀秘定候由、岡崎緒川より(明知別心也)申来候、家康者境ニ御座候由候、岡崎江越候、家康いか、伊勢地を御のき候て、大濱へ御あかり候而、町迄御迎ニ越候、穴山者腹切候、ミちにて七兵衛殿別心ハセツ也 「…

伊賀越戦死者200人について(その4)

そもそも「討たれた」にせよ「討った」にせよ200人は多すぎるのではないか? 俺は「落ち武者狩り」に詳しくないけれど、たとえば明智光秀は土民に襲撃されて死んだというけれど、この時光秀は近臣5〜6人だったという。この程度なら相手が武士といえども大人…

伊賀越戦死者200人について(その3)

『家忠日記』の 此方御人数、雑兵共二百餘うたせ候 が「家康の軍勢が200人討たれた」だった場合、家康の軍勢は一体何人だったのだろうか?200人以上いたことになるのは確かだが何人いたのかはわからない。でも300人で200人討たれた程の苦難があったとしたら…

伊賀越戦死者200人について(その2)

引き続き 此方御人数、雑兵共二百餘うたせ候 の解釈について。これを考えるについてはさらにややこしい問題がある。 ⇒『家忠日記』の記事紹介と解説(PDF) を見れば、この「此方御人数、雑兵共二百餘うたせ候」は、日記の欄外に追記の形で書かれているのであ…

伊賀越戦死者200人について

⇒【真田丸】コミカルすぎる伊賀越えだが実は(敵が)200人死んでいる件【うわ〜うわ〜】 - Togetterまとめ これは『家忠日記』という史料に書かれていることが元になっていると思われる。原文はこう。 此方御人数、雑兵共二百餘うたせ候 で、これをどう読む…

穴山梅雪は家康に殺されたのか?

この話の出所は『老人雑話』という史料に 穴山路地にて一揆に殺さるゝと云、又東照宮の所為なりとも云。 というもの。これを家康が梅雪を殺したと解釈したためのものだろう。 『老人雑話』は伊藤坦庵という人物が友人の江村専斎(1565-1664)の日常談話を記…

第六天魔王信長(その2)

「天台座主沙門信玄」について フロイスも、信玄は比叡山復興を旗印に出陣してきたと述べています。信玄は元亀3年に天台宗から権僧正に任じられた上で出陣していますから、信長と戦うとなった際には、そういうアピールをして自己正当化を図ったのでしょう。…

第六天魔王信長

このことはいつか書こうと思ってたんだけど。 フロイスも、信玄は比叡山復興を旗印に出陣してきたと述べています。信玄は元亀3年に天台宗から権僧正に任じられた上で出陣していますから、信長と戦うとなった際には、そういうアピールをして自己正当化を図っ…

武田勝頼と家族の肖像画

昨日の歴史秘話ヒストリア。「偉大なる父・信玄よ!〜若きプリンス 武田勝頼の愛と苦悩〜」 ⇒歴史秘話ヒストリア 武田勝頼の肖像画について 勝頼が家族をいかに大切にしていたかを示すものが残されています。 武田の家紋花菱をあしらった衣を身にまとい凛と…

信長公(その2)

去年の末に楽市楽座について書いて、まだ続きがあるんだけれど、だんだん話が細部になっていくと、調べるのが大変になってきて、なかなか書けない。 で、その美濃加納の楽市楽座に関して重要な円徳寺の梵鐘なんだけれど、その銘文に「大檀那上総介平信長公」…

「信長公」について

⇒秀吉が信長を呼び捨てにした件について - 国家鮟鱇 のつづき。 毎日放送の記事で今は消えてるけれど また主君だった信長についても書かれていて生前は「信長公」と敬称付けで表記されていたものが天下人に近づくこの時期、「信長」とすでに呼び捨てにされて…

(諏訪で)信長が光秀を折檻したという伝説はいつ発生したのか?(その8)

もう十分書き尽くしたとは思うけれど、さらに補完的なことを書いておく。 まず『祖父物語』に勝頼が討たれた記事がないなど省略が多いという件。 https://twitter.com/kirinosakujin/status/694382926058749953 これはおそらく『川角太閤記』に 是ハ信長記 …

(諏訪で)信長が光秀を折檻したという伝説はいつ発生したのか?(その7)『祖父物語』

御供ニハ野尻迄西尾小左衛門計リ参リ候ヘ。其外ハ無用ト被仰不被召連。両人者家康公其外士供御使ニ被遣。 (お供には野尻(木曽郡大桑村)まで西尾小左衛門だけがついてこい。その他は無用であると仰せになり召し連れなかった。残りの「両人」は家康その他の…

(諏訪で)信長が光秀を折檻したという伝説はいつ発生したのか?(その6)『祖父物語』

信長公甲州ヘ御出陣アルヘシトテ。安土ヲ御立有ケルカ。濃州六ノ渡ニテ信州伊那郡高遠ノ城主仁科五郎カ首曲ケ物ニ入ル。信忠ヨリ飛脚持来ル。其首大髷ニテ年廿ハカリニ見ユル。 (信長公は甲州へ御出陣すべしと安土を出立したところ、美濃呂久の渡にて、信濃…

(諏訪で)信長が光秀を折檻したという伝説はいつ発生したのか?(その5)

繰り返すが『祖父物語』において信長が光秀を折檻した場所は諏訪の法華寺ではない。美濃の呂久の渡であると読解するべきである。それを諏訪での出来事と「誤読」し、信長が法華寺に本陣を置いていたことから、法華寺で光秀は折檻されたという「新しい伝説」…

(諏訪で)信長が光秀を折檻したという伝説はいつ発生したのか?(その4)

諏訪法華寺で信長が光秀を折檻したという「伝説」の普及に『明智光秀』(高柳光寿 1958)の果たした役割は非常に大きかったのではないかと推測する。 高柳博士は偉大な学者だから、影響力は大きかっただろう。博士自身はこの話を信用できないとしているけれ…

(諏訪で)信長が光秀を折檻したという伝説はいつ発生したのか?(その3)

信長が光秀を諏訪の法華寺で折檻したという話の出典だと考えられる『祖父物語』には実際になんと書いてあるのか?該当部分を引用する。 信州諏訪郡何レノ寺ニカ御本陣可被置ト。其席ニ而明智申ケルハ。扨モ箇様成目出度事不御座。我等モ年来骨折タル故。諏訪…

(諏訪で)信長が光秀を折檻したという伝説はいつ発生したのか?(その2)

信長が光秀を折檻したという話自体は複数あって、有名なのは例の「きんかんあまた」の話(『義残後覚』)。ただしこれは「あるとき」であり「庚申待」で諸士が酒宴乱舞していたときのことだ。同種の話が『続武者物語』と『柏崎物語』にもあるというが未読(…

(諏訪で)信長が光秀を折檻したという伝説はいつ発生したのか?

昨日の「真田丸」より 諏訪湖のほとりに広がる長野県諏訪市。諏訪大社は、全国にある諏訪神社の本社として知られる社です。信濃に攻め込んだ織田信長は諏訪大社上社の脇にあった”法華寺”を本陣としました。信長が激怒し明智光秀の頭を打ちすえたのはこの寺だ…