第六天魔王信長(その2)
「天台座主沙門信玄」について
フロイスも、信玄は比叡山復興を旗印に出陣してきたと述べています。信玄は元亀3年に天台宗から権僧正に任じられた上で出陣していますから、信長と戦うとなった際には、そういうアピールをして自己正当化を図ったのでしょう。
— 丸島和洋 (@kazumaru_cf) 2016, 2月 2
信玄が「権僧正」に任じられたというのは事実(もっとも俺はこのあたりのこと詳しくないんだけど…)
元亀2年(1571年)の織田信長による比叡山焼き討ちの際、信玄は信長を「天魔ノ変化」と非難し、比叡山延暦寺を甲斐に移して再興させようと図った。天台座主の覚恕法親王(正親町天皇の弟宮)も甲斐へ亡命して、仏法の再興を信玄に懇願した。信玄は覚恕を保護し、覚恕の計らいにより権僧正という高位の僧位を元亀3年(1572年)に与えられた。また、元亀2年には甲相同盟が回復している[27]。
「権僧正」とは「大僧正・僧正の次の位にある者。僧正の権官」
⇒権僧正(ゴンノソウジョウ)とは - コトバンク
⇒僧階 - Wikipedia
ルイス・フロイスの報告書には「テンダイノ・ザスシャモン・シンゲン」とある。信玄が天台座主であるわけがない。
一方、信玄が信長に宛てた書状に「権大僧正」の肩書で署名したということが実際にあった可能性は十分あるとはいえるだろう。
ただ、ここで考えなくてはならないと思うのは、この信玄と信長のやりとりが、実際にあったことで「天台座主沙門」だけが間違いで、本当は「権僧正」と書いてあったのだとすれば、信長は信玄が実際に持っている「権僧正」という肩書に対して「第六天魔王」と返したことになる。信長ならやりかねないと思う人もいるかもしれないけれど、俺はそこがどうもしっくりこないのである。
信玄が「天台座主沙門」という肩書を「まったくの傲慢さから己れの名を高めようと(フロイス)」僭称したから、それに対応して信長は「第六天魔王」と署名したのだという話として理解すべきではないかと思うのである。
そして信玄が「天台座主沙門」と自称したということはほぼあり得ないと思われるので、信長がそれに対して「第六天魔王」と返すこともまた事実ではないだろうと思うのである。
(つづく)