このことはいつか書こうと思ってたんだけど。
フロイスも、信玄は比叡山復興を旗印に出陣してきたと述べています。信玄は元亀3年に天台宗から権僧正に任じられた上で出陣していますから、信長と戦うとなった際には、そういうアピールをして自己正当化を図ったのでしょう。
— 丸島和洋 (@kazumaru_cf) 2016, 2月 2
フロイスも、信玄は比叡山復興を旗印に出陣してきたと述べています。信玄は元亀3年に天台宗から権僧正に任じられた上で出陣していますから、信長と戦うとなった際には、そういうアピールをして自己正当化を図ったのでしょう。
— 丸島和洋 (@kazumaru_cf) 2016, 2月 2
それで出てくるのが、「天台座主沙門信玄」と署判した「手切之一札」を送ってきたというフロイスの記述ですが、さすがにこのような署判は想定できません。天台座主ではないですし。「法性院信玄」であったろうと思います。ただ、信玄が比叡山復興を旗印に掲げたことが重要なのです。
— 丸島和洋 (@kazumaru_cf) 2016, 2月 2
「手切之一札」はあちこちにばらまいて正当性を主張し、味方を増やすのが目的ですから、そのなかにウィットに富んだ文言を滑り込ませたということになります。ただ、「魔王」という言葉が何となく信長のイメージにあうので、独り歩きしてしまった、ということです。
— 丸島和洋 (@kazumaru_cf) 2016, 2月 2
@tonmanaangler 戦国時代の開戦の作法に則ったものなので、類するやりとりがあった可能性は高いと思っています。フロイスが正確な内容を知りえたかは別として。
— 丸島和洋 (@kazumaru_cf) 2016, 2月 3
信長の「第六天魔王」だけが注目されているけれど、信玄は信玄で「天台座主沙門信玄」と名乗ってるんですよね。
しかし、信玄がそんな名乗りをすることはおよそあり得ない。
だから、これは本当にあったことではないと俺は考えていたんですけどね。
ところが丸島和洋氏によると、その部分は正確じゃないけれども、他は実際にあった可能性が高いと。
そういう考え方は想定していなかった…
まあ、よくよく考えてみればこのやりとりが実際にあったか?なかったか?というのは、新史料が発見されて「あった」ことが証明されれば別だけれども、そうでなければあまりにも史料が少なすぎて「あった」と主張するにしろ「なかった」と主張するにしろ、それほど確固としたものにはなりえないだろうとは思う。