2018-01-01から1年間の記事一覧

陰謀論批判批判4

繰り返すが俺は明智氏の説を支持しない。正しい可能性は非常に低いと思う。数値にするのは困難だが仮に正しい確率は1万分の1(0.01%)だとしよう。この説が正しいということはおよそ有り得ないということだ。 けれど、有り得ないというなら呉座勇一氏のフロ…

陰謀論批判批判3

明智憲三郎氏の説を俺は支持しない。だからといって明智氏を気軽に叩けるかといえばそうではない。なぜなら歴史学会と明智氏とどっちが俺と近いところにいるかといえば、断然明智氏の方が近いから。素人の歴史好きと一口に言ってもいろいろな種類があるのだ…

陰謀論批判批判2

『陰謀の日本中世史』は非常に評判が良い。ツイッターで言及されてるものをチェックしてみても批判は滅多に無い。それだけこの本が優れているのだという考えもできるだろうけれども、一方では世の中には陰謀論が蔓延しており、それを信じている人が多数いる…

陰謀論批判批判

呉座勇一氏が陰謀論批判をしている。 ⇒「この国に陰謀論が蔓延する理由」歴史学者・呉座勇一に訊く(現代ビジネス編集部) | 現代ビジネス | 講談社(1/3) 陰謀論を批判するのは良いのだけど、この批判は妥当なのだろうか? なにか大きな事件が起こると、す…

『付喪神記』と『百鬼夜行絵巻』(その10)

赤くて丸い物体について (真珠庵本) これについて田中貴子氏は 通常は朝日の出現と解されている物体が、『付喪神記』における「陀羅尼から発する付喪神調伏の火の玉(『図説 百鬼夜行絵巻をよむ』) だと主張する。『付喪神記』で 時に関白殿下、臨時の除…

『付喪神記』と『百鬼夜行絵巻』(その9)

あと『百鬼夜行絵巻』で思うのは、たとえばこれ。 上が昨日紹介した日文研本で下が東博模本。見ての通り、上の妖怪が下では蛸の妖怪になっている。ただし妖怪のポーズに変化はない。 で、それはそれとして、その妖怪と亀に乗った蛙の妖怪との位置が異なる。…

『付喪神記』と『百鬼夜行絵巻』(その8)

2007年に発見された『百鬼ノ図』日文研(国際日本文化研究センター)蔵。『百鬼夜行絵巻の謎』(小松和彦)に載る。 (集英社新書)" title="百鬼夜行絵巻の謎 (集英社新書)">百鬼夜行絵巻の謎 (集英社新書)作者: 小松和彦出版社/メーカー: 集英社発売日: 2008/1…

『付喪神記』と『百鬼夜行絵巻』(その8)

『付喪神記』(国会図書館本)に赤鬼と青鬼の「悪鬼」が登場することは既に書いた。彼らは器物が妖変した付喪神。実はそれ以外にも「鬼」が登場する。それが「護法童子」。 然るに第六日の後夜の時に御聴聞の為に、主上出御なるとて、御殿の上を御覧ぜらるゝ…

『付喪神記』と『百鬼夜行絵巻』(その7)

『付喪神記』の「悪鬼」は「鬼」とはいっても「鬼神」ではなく、あくまで付喪神の一種であろうということは既に書いた。 では『百鬼夜行絵巻』(真珠庵本)の「鬼」は何者か? そもそもどれが「鬼」なのか判断が難しいが、明らかに鬼だと考えられるのは赤鬼…

『付喪神記』と『百鬼夜行絵巻』(その6)

今回は『百鬼夜行絵巻』について。まず基礎知識として「百鬼夜行」には「鬼神の行進」「妖怪の行進」「行進だとは限らない」と様々なバリエーションがある。『百鬼夜行絵巻』は少なくとも4つの系統があり最も有名なのは「真珠庵本」と呼ばれる系統。一般に『…

『付喪神記』と『百鬼夜行絵巻』(その5)

『付喪神記』に描かれる器物でも人間でも獣でもない妖怪は何者か?『付喪神記』では 或は男女老少の姿を現はし、或は魑魅悪鬼の相を変じ、或は狐狼野干の形をあらはす。 とあるから、これらは「魑魅悪鬼」となるだろう。ただし「魑魅悪鬼」はおそらく「魑魅…

『付喪神記』と『百鬼夜行絵巻』(その4)

(画像が切れてるので全体を見るには「国立国会図書館デジタルコレクション」にアクセス)再び「付喪神」の行列。昨日書いたように一番下の画像の左の2体が火炎によって元の姿に戻ったものだとすると、それ以外の行列に参加する「付喪神」は元の器物の形態を…

『付喪神記』と『百鬼夜行絵巻』(その3)

妖怪達が「舞、酒宴、遊戯」する場面で、彼らの容姿は器物の容姿を有していない。次に やがて此の山の奥に社壇を建てて、その名を変化大明神と号し奉る。立烏帽子の祭文の督を神主とし、小鈴の八乙女、手拍子の神楽男などさだめおきて、朝に祈り夕に祭り申す…

『付喪神記』と『百鬼夜行絵巻』(その2)

『付喪神記』を画像から読み解く。なお『付喪神記』には岐阜の崇福寺所蔵の『非情成仏絵巻』と、国会図書館所蔵の『付喪神繪』の二系統があり、両者の絵は比較すると全く異なる。ここでは国会図書館所蔵の『付喪神繪』について論じる。※ 崇福寺本についても…

『付喪神記』と『百鬼夜行絵巻』(その1)

図書館で『図説 百鬼夜行絵巻をよむ』(河出書房新社 2007)と『百鬼夜行の見える都市』(田中貴子 1994 文庫版2002)を借りてきた。最初は付喪神に対する関心しか無かったのだが、付喪神と『百鬼夜行絵巻』には密接な関係があるので、こっちにも関心が湧いて…

「淀君」が蔑称だという珍説(目次)

「淀君」が蔑称だという珍説 「淀君」が蔑称だという珍説(追記) 「淀君」が蔑称だという珍説(追記その2) 「淀君」が蔑称だという珍説(追記その3) 浅井三姉妹(アナザーストーリー)(2007/10/05) 淀君は貶められたのか (2009/03/25) 淀君は貶められた…

付喪神について(目次)

付喪神について(その1〜その6) 付喪神について(その7) 付喪神について(その8〜その9) 付喪神について(その10〜その11) 付喪神について(その12) 付喪神について(その13〜14) 付喪神について(その15)

福島正則の「西上」(目次)

「西上」とは何か?(目次) 福島正則の「西上」(その1) 福島正則の「西上」(その2) 福島正則の「西上」(その3) 福島正則の「西上」(その4) 福島正則の「西上」(その5) 福島正則の「西上」(その6) 福島正則の「西上」(その7) 福島正則の「西上…

福島正則の「西上」(おまけ)『慶長年中卜斎記』について

白峰旬氏の論文『フィクションとしての小山評定 : 家康神話創出の一事例』では「3.『慶長年中卜斎記』が描く小山評定」と題して『慶長年中卜斎記』について論じている。その後、本多輶成氏がこの前「小山評定の再検討」( 『織豊期研究』14号)を発表し…

福島正則の「西上」(その7)

『「人数之儀者被上」は正しいけれども、正しくなく「止」が正しいという可能性』とはどういうことかといえば…と、その前に4年前に話題になった「石谷家文書」の話。説明会で岡山県立博物館の内池英樹氏の話を聞いた時の話。記憶に頼るので間違ってるところ…

福島正則の「西上」(その6)

もう一つの可能性 既に書いたように、福島正則宛家康書状の「人数之儀者被上」の「上」が上洛するという意味である場合、『福島太夫殿御事』はそれにピタリ当てはまる。だが実を言えばここに一つの大きな問題がある。それは通説では『武徳編年集成』にしたが…

福島正則の「西上」(その5)

「西上」とは「西に進む」という意味ではなく「上方を目的地として進む」という意味。よって福島正則宛書状に「人数之儀者被上」とあるのは「正則の軍勢は上方に向かわせ」という意味。正則軍を上方に向かわせる理由は、三成と対決させるためではなく正則の…

福島正則の「西上」(その4)

『福島太夫殿御事』の前後が史籍集覧でわかったので引用しておく。読点は適宜入れた。 「福島太夫殿御事」(前略)景勝越後より奥州え國替仕候に付三年在京御免に候、然共諸大名誓紙景勝一人不被致候、景勝登誓紙可有旨、家康公被仰越候得共、景勝返事三年在…

福島正則の「西上」(その3)

福島正則宛書状が「人数之儀者被止」ではなく「人数之儀者被上」なのだとしたら、正則の目的地は京・大坂でなければならない。では史実の正則はその後どうなったかといえば、白峰旬氏の論文によれば 福島正則が清須城に到着した日付は不明であるが、8月4日…

福島正則の「西上」(その2)

家康が7月19日時点で福島正則の軍勢を京・大坂に行かせる決定をしていたとすれば、「小山会議はなかった」ことの根拠になるかもしれないが、それはそれとして、このこと自体が関ケ原合戦研究における重要なはずだ。だが、これについてはあまり注目されてない…

福島正則の「西上」(その1)

「西上」とは何か?(目次)「西上」とは「東方から京都に行く」という意味。信長時代には安土に行くことも「西上」、秀吉時代には大坂に行くことも「西上」だったかもしれないが、基本的にはそういう意味。したがって「武田信玄西上作戦の目的は上洛ではな…

「西上」とは何か?(目次)

「西上」とは何か?(その1) 「西上」とは何か?(その2) 「西上」とは何か?(その3) 「西上」とは何か?(その4) 「西上」とは何か?(その5) 「西上」とは何か?(その6) 「西上」とは何か?(その7)

『陰謀の日本中世史』について(目次)

『陰謀の日本中世史』について(その1) 『陰謀の日本中世史』について(その2) 『陰謀の日本中世史』について(その3) 『陰謀の日本中世史』について(その4)「愛宕百韻」について(1) 『陰謀の日本中世史』について(その5)「愛宕百韻」について(2)…

『陰謀の日本中世史』について(その9)

「黒幕陰謀論」も「隠された真実・歪められた歴史」も根っこは同じ。「陰謀論」の定義は定まっていないから、前者を陰謀論とし後者は陰謀論ではないとするのは自由だが同類であることには違いない。『陰謀の日本中世史』は前者への批判が中心だが、実朝暗殺…

『陰謀の日本中世史』について(その8)源実朝暗殺事件(その2)

源実朝暗殺事件の真相は?といった場合、まず当たるべきは一次史料である。これは本能寺の変に関して学者や研究者が良く言うので鍛えられている。で、一次史料でわかるのは、建保7(1219)年1月27日の夜に鶴岡八幡宮で将軍実朝が公暁に殺され、公暁もまた討た…